明治時代の幻の妖怪研究?−−今泉秀太郎「お化の話」(『一瓢雑話』より)

今年はなるべくブログを更新したい。というわけで、昨年にTwitterで少し言及してそのままになっていた小ネタ。


今泉秀太郎『一瓢雑話』(1901年)に「お化の話」というエッセイがある。

近代デジタルライブラリー - 一瓢雑話 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898198/56


今泉秀太郎については、とりあえずWikipedia参照。
 >今泉一瓢 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%B3%89%E4%B8%80%E7%93%A2


今泉は上記の文章の中で次のように述べている。


私は明治十五、六年の頃、不意とお化の絵を、集めて見たいといふ考を起しまして、まづ絵冊子類を買つたり、又借りたりして、初めの間は一々それを西洋画風に、画き直す積りで、着手して見ました所が、お化の絵は幾らでもある上に、画家が種々様々に工夫して、新しいものを拵へるから、迚も夫れを悉く写す事は、出来るものではないと、遂に思ひ切つて仕舞ひました。

〔・・・中略・・・〕

私は明治廿四年頃の時事新報紙上に、お化の絵を掲げました事が、御座いますが、其後別に新材料を得ませぬので、今日まで其儘に打ち過ぎて居ります。元来私の考では、井上圓了博士の様に、哲学上から研究を成す抔云ふ次第でなく、唯絵画上から妖怪の類別を為す事と、妖怪に就いて昔からの画家が、次第に進歩した考案を出して来る順序、又各国人の意想の相違して居る点を、明かにしたい位の事であります。後日沢山に材料を集める事が、出来ましたらば、改めて御覧に入れませう。


◆今泉秀太郎「お化の話」『一瓢雑話』、誠之堂、明治34年(1901)、81〜84頁


当時、慶應義塾に在籍していた今泉秀太郎がどのような経緯で「不意とお化の絵を、集めて見たいといふ考を起し」たのかこの文章から窺い知ることは出来ないが、明治における妖怪画への関心を示す例として面白い。

ただしこの本が出版された時点で今泉はすでに病床の身にあり、今泉自身の記すところによれば、本業の絵筆をとることすらままならない状況だったようだ*1。『一瓢雑話』は今泉の口述を記録した速記本の形で刊行された。

この本の刊行から3年後の明治37年、今泉一瓢は40歳の若さでこの世を去る。生来病弱だったこともあり、生前、画家としての今泉の活動は今一つぱっとしない。よって、上記で述べられている明治24年頃の『時事新報』紙上に掲載したという「お化の絵」や妖怪画の類別とその歴史をまとめ諸外国の妖怪に対する考え方を比較するという構想なども、恐らくはその後とくに顧みられることなく放置されたと思しい。

もしこの構想が実現していれば、美術史的な評価はともかく、江馬務『日本妖怪変化史』や吉川観方『絵画に見えたる妖怪』に先駆ける、妖怪研究史上の重要な存在として今泉秀太郎の名が残っていた可能性もなくはない(のかもしれない)。

*1:今泉秀太郎・術、福井順作・速記『一瓢雑話』、誠之堂、明治34年(1901)、2頁、「前口上」より http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898198/5