今尾景年は妖怪画を描かない。――『名家歴訪録』(1901年)

 忘れそうなので書いておく。


 黒田譲『名家歴訪録』(1901年)の「今尾景年氏」の章で、明治29年12月23日、黒田譲(天外)に今尾景年本人が自己の経歴をインタビュー形式で語った下りで以下のようにある。

……それで私も幼年の時から、絵が大好で厶いまして、十歳の頃で厶いましたか、いろ/\の妖怪の画を描て、それを処撰ばず壁に貼つけ、化物屋敷やといふて、朋輩の小児を脅して居りましたが。其頃疫病が流行して、私方の一家にも之に罹りました。そこで親共や兄が大に叱責(しかり)まして、汝がこの様な不吉の画を室中一ぱいに張ておくから、それで家中がこんな病気にかゝるのやと、貼てあつた絵は残らず引めくつて焼棄てましたが、其時叱責(しかられ)ました声は、今も耳底に残つておる程で、それが為め私は妖怪の如き図は一生描ん心得で厶います。


(「今尾景年氏」、黒田譲『名家歴訪録 上篇』、黒田譲、1901年、66〜67頁 *1

 家人が流行り病に罹った理由を、妖怪の絵を家中に張っていて不吉だったからというところに求めている景年幼年時代の逸話。「十歳の頃」と言っているので安政元年(1854)あたりの話だろう。
 おそらくは河童だとか一つ目小僧だとか見越し入道、ろくろ首などの絵が家の壁にたくさん張り巡らされたのだと思うが、結果的にとはいえ家族に責められるレベルの量の妖怪画が張られた光景とはどんなものだったのだろうか。