新渡戸稲造の教育的妖怪論――「妖怪改良の説」(1906年)

 Twitterにちょろっと連投したツイートの再編集版まとめ記事です。
 

 新渡戸稲造に、「妖怪改良の説」という3ページばかりの文章がある*1明治39年(1906)に雑誌『さをしか』に発表された。
 書き出しこそ、「妖怪の談は何れの国にも伝はつて居るが、その国民の気風は、冥々裡にその妖怪の感化を受けるやうである。」*2と、妖怪に関する文章ではしばしば目にする類のそれなのだが、そこから新渡戸稲造はそれぞれの国の妖怪の研究・分析を求めるのではなく、国の発展のために妖怪を改良すべし、と主張するのである。

 まず、新渡戸は論を進めるに当たり、「西洋の妖怪=優しい」「日本の妖怪=恐い」、という図式を立てる*3

西洋には子供の友達となるやうな優しいお化があるが、日本には一ツもさういふものはなく、お化と云へば子供が恐怖の目的物となつて居る。*4

 そのうえで新渡戸は西洋の妖怪の例として、“美を代表する”「フエーリー」、“滑稽を代表する”「フラオニー」を挙げている。

フエーリーは森の中へ迷ひ込んだ子供に美しい花を呉れたり、面白い歌を聞かしたりして子供を慰め、フラオニーは子供の前に滑稽な道化を演じて、子供を喜ばすと云ひ伝へられて居る、フラオニーが呼んで居ると思つて、決して恐怖するやうなことはない。*5

 ゆえに。

斯様な思想が段々発達すると、国民の冒険心を高め、殖民移住等を盛ならしむるやうになる。*6

 それに対して、日本の妖怪は天狗にしろ河童にしろ「子供を恐怖せしむるものばかり」であると述べる。

 ゆえに。

子供の心は自ら萎縮して籠城主義となり、退隠主義となり、その結果国力の発展を妨げるやうになる*7

 その国の妖怪が優しいか、恐いかによって「国力」に差が生じるのだと主張するのである。 
 それゆえに、以下のような結論になる。

今日は教育が開けて、化物談が段々滅却して行く傾きがあるが、しかし人間の好奇心の存する限は、化物は決して世界から滅絶するものではない。だから寧ろこの化物を教育上に利用するのが得策であるとおもふ。西洋のフレーリー、フラオニーなどは、世界が如何に進歩しても、決して隠れてしまふものではない。だから日本の化物も段々に改良を加へて、日本国民固有性に近よらしめて、今少し快活なるものとしたならば、人文開発の上に於て稗益する͡とが尠からぬと思はれる。*8

 日本本来の国民性は“快活なるもの”であったはずなのに、中国やインドから輸入された“陰鬱幽怪的なる思想”に影響されて“国民の発達を害して居る”、いまいちど(西洋にあるような)快活なものに改良するべきだ、とこういう主張である。いわゆる脱亜入欧の思想に支えられた言説であるといえよう。

 また、新渡戸は文中で日本の妖怪思想が“陰鬱幽怪”となっている理由を日本の伝統絵画に求めるているのだが、「...日本の画家は、其の画を完成するといふよりは、何にか新工夫を案じて、人の意表に出でんことを考へ、その結果人間でもなく普通の動物でもない一種の畸形なる天狗ともなり、鬼女ともなり、一ツ目小僧ともなり、大入道ともなつたものと思はれる。」*9と、ここではその指し示すところが妖怪画そのものというよりも風刺的な意味合いへ微妙にすり替わっているように見える。日本の従来的な技術を西洋からの新規の技術と比べて消極的に見做す考え方が伺える。


 以上、まとめ。
 以下、註釈的な何か。


 明治の教育に関する文章で妖怪談に言及しているものは、ネット上で読めるものだと例えば鈴木重光編『徳育のはなし』(1892年)がある。

怪談とは化物話のことであり舛(ます) 化物の話は児童を畏縮(おぢけ)さすものなれば常に怪談を聴きてゐる児童(こども)の精神(こころ)は畏縮(おぢけ)てゐます 精神(こころ)が畏縮(おぢけ)てゐますと芸事も発達しません 立派な人にも成られませんから幽霊だとか轆轤首だとか一ツ目小僧だとか三ツ目入道だとかいふ様な話をするものがありても其様な話は聞かぬ様にしなければ成りません


(「怪談は聞かぬ様にする方がよし」、鈴木重光編『徳育のはなし』、飯塚書店、1892年、14頁*10

 妖怪談は子供を畏縮させるものなので撲滅すべし、までがこの頃の模範的なもの言いである。
 これをただ撲滅するのではなく、有用に改良せよ、と主張したところに新渡戸の論の独自性があるといえるだろう。


 そういえば、以前にこのブログで取り上げた今泉一瓢も、日本における妖怪のユニークさの理由を絵画に求めていたことを思い出した。あまり関連性はないかもしれないが備忘的にメモしておこう。

日本ニ妖怪思想ノ独リ発達シタル原因ハ仏者ガ因縁、因果ノ道ヲ説キタル結果ニシテ又画家ガ絵画ヲ利用シテ之ヲ補佐シタル所以ナル可シ


(今泉秀太郎「お化の話」、『一瓢雑話』、誠之堂、1901年、83頁*11

 今泉が言うように、実際、日本の妖怪思想が他国と比べて独特なのかどうかという問題は保留する。


 あと、これは後日気づいたことだが、牧田弥禎『斯の如き迷信を打破せよ』(1921年)にある「西洋の妖怪は洵に滑稽なり」の部分は、おそらく、この新渡戸の文章を読んで書いてるんじゃないかしらんという感じがする。

元来狐狸は素より化物と云へば何れも恐ろしきものと定まりあるに西欧に於ては却て心根のやさしきお化けありと云ふに至りては、又以て奇ならずや。乃ち欧米に於ける優しき妖怪とは林中に居るフエーリーと名(なづ)くる妖怪なり。此妖怪は美を代表する化物にて色白く洵(まこと)に愛らしきものなりと云ひ、又滑稽を代表する妖怪はフラオニーと云へるものにて其色は黒きも至極瓢キンものなりと云へり。若しや林中に於て迷子と為り居る子供をフエーリー妖怪の見るときは、美麗なる花を与へ又愉快なる歌を聞かせて其子を慰むと云ひ。若しフラオニーのお妖(ば)けに会ふときは滑稽極まる道化を演じて其子供を喜ばすものなりと云ふ。惟(おも)ふにこれ等は何かのお伽噺を実事的に為りたる話ならん乎。素より真面目に聴くべきことに非ざるは云ふを俟たず。


(牧田弥禎『斯の如き迷信を打破せよ』、名倉昭文館・東京昭文館、1921年、86頁、「第十二章 狐が人を妖かして狸が茶釜と化ける / 西洋の妖怪は洵に滑稽なり」*12

 とくに、「...乃ち欧米に於ける優しき妖怪とは林中に居るフエーリーと名(なづ)くる妖怪なり。此妖怪は美を代表する化物にて色白く洵(まこと)に愛らしきものなりと云ひ、又滑稽を代表する妖怪はフラオニーと云へるものにて其色は黒きも至極瓢キンものなりと云へり。...」ってあたりなんか、ほぼそのまま参照している印象を受ける。それとも、両者が共通して下敷きにしているテキストがあるんだろうか。


 今回も近デジをフル活用させていただきました。多謝。

*1:新渡戸稲造「妖怪改良の説」、若葉会編『さをしか』1号、五車楼、1906年9月、11〜13頁

*2:前掲書、11頁

*3:余談だが、西欧の妖怪は明るく日本の妖怪は暗い的な図式は、内田魯庵も、「一言すれば、西洋の化物は日本のよりもヨリ以上に陽性で、傍若無人に悪辣な悪戯をする。」(内田魯庵『バクダン』、春秋社、1926年、413頁 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019521/229)という言い方をしている。ただし、魯庵は同時に「一体、日本人は生きてる間は極めて表情に貧しいが、幽霊となると頗る表情に富んで来る、之に反して西洋人は常住座臥手を掉り肩を聳かし眼を動かして頗る表情に巧みであるが、幽霊は無表情無技巧である。」(427頁 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019521/236)とも述べており、新渡戸の論ほど単純ではない。魯庵の文章は日本の百鬼夜行絵巻や西洋のハロウィーンを例に、「鳥渡聞くと矛盾のやうに思ふが、怪異と滑稽とは、相隣りしてゐる。「グロテスク」といふ語は通例恐ろしいものを形容する場合に用ひるが、馬鹿々々しい桁外れの図抜けた異物畸形を形容する場合にも亦使用する。」と続いており、ヴィルヘルム・ミヒェル『芸術における悪魔的なものとグロテスクなもの』やアンドリュー・ラング『書物と愛書家』も引き合いに出しつつ、もう少し踏み込んだ言及をしている(433頁 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019521/240)。

*4:新渡戸、前掲書、11頁

*5:前掲書、12頁

*6:前掲書、12頁

*7:前掲書、12頁

*8:前掲書、13頁

*9:前掲書、13頁

*10:"近代デジタルライブラリー - 徳育のはなし" http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757933/9

*11:"近代デジタルライブラリー - 一瓢雑話" http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898198/57

*12:"近代デジタルライブラリー - 斯の如き迷信を打破せよ" http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963357/49