“只だ化け物が面白い”――伊東忠太「化けもの」(1925年)

建築家の伊東忠太(1867‐1954)が妖怪について書いたまとまった文章に「妖怪研究」があり、青空文庫でも読める*1
で、この「妖怪研究」とは別に、伊東忠太には「化けもの」という随筆があるのだが、こちらは『伊東忠太建築文献』*2に収録されたものが国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている*3
しかし、「化けもの」のほうは「妖怪研究」の知名度と比して、現状、目に触れる機会が少ないように思う。
読んでみると、「化けもの」も読み物としてじゅうぶんに面白く、伊東忠太の建築家としての面だけでなく妖怪フリークっぷりの一面が垣間見える文章となっており、これが読まれていないのは妖怪好きの立場からしてもたいへん惜しい。


というわけで、以下に書き起こしてみた。

なお、表記は適宜、新漢字に直している。


化けもの



一、化け物の世の中


 予は別に化け物学を修めた訳でもなく、またそんな学問があるかどうだか知らないが、何の因果か、性来化け物が大好きで、幼少の時母の膝に抱かれて数々のお伽話を聞かせられた中にも、化け物の出て来る話には一入興がつたものである。近頃予は折に触れて漫画を描く癖がついたが、其の漫画が兎角化け物的なるのも、所謂三つ児の魂百までと云ふのであらう。
 しかしよく考へて見ると、誰でも化け物とは極めて親しみが深い筈である。誰でも幼い時分にはお伽話を聞かされるが、其のうちで化け物の出て来ないのは甚だ稀である。舌切雀では重い葛籠から無数の化け物が飛び出し、カチカチ山では狸が婆さんに化け、茂林寺の文福茶釜は狸に化け、桃太郎では鬼が対照物である。
 稗史小説類を見ると、これが亦た化け物づくめである。大江山の酒顛童子や、戸隠山の鬼女、安達ヶ原の鬼婆などは愚なこと、凄いのでは玉藻前の九尾の狐、鍋島の猫騒動、悲しいのでは三十三間堂の柳の精、信太の森のうらみ葛の葉、おそろしい幽霊では浅間が岳の時鳥、皿屋敷のお菊、四つ谷のお岩に、埴生村の累と、数へ来れば際限がない。講談師が張扇で叩き出す武勇伝には、化物退治がつき物である。
 斯くの如く幼少の時から化け物話で鍛へ上げられた吾人の頭は、容易に化け物から離れられない。化け物に興味を有つのが当り前で、興味を有たぬ人は余程の変り者である。
 尤も妖怪談は時代の進歩に逆比例して少くなるもので、近来はメッキリ減つて来たが、それでも相当に話頭に上つて世間を賑はしてをる。妖怪変化を実際見たと云へば、いやそれは幻覚や錯覚であると云ふ。学理上化け物はあり得ないといえば、イヤそれはまだ学問が幼稚だから解釈し得ないのだといふ。尤も他の意味に於ける化け物は、今の世の中の方がズッと昔より多くなつた。社会の闇黒面を覗いて見ると化け物だらけであるがこれは別問題として、真実の化けものは果してゐるかゐないか一つ吟味して見よう。


二、化け物は居るか居ないか


 予が学生時代に本郷の寄席へよく講談を聞きに行つた。慥か桃川如燕であつたと思ふが、高座に上るや否や咳一咳
「世に化けものはないといふ、あるといふ。しかるに下野の国に女化ヶ原といふがある。これは狐が女に化けたところから女化ヶ原といふ。若しも狐が化けないものならば、何で女化ヶ原といふ名があらうぞ。化け物の有ることはこれでもわかる……」
と大見得を切つたので、さすがに講談師一流の論理法は違つたものだと非常に感心したので今以てよく覚へてゐる。
 故井上円了博士は有名な妖怪学者であつたが、博士は化け物の有無については徹底的に断案を下してをらない。其の名著妖怪学には、幻覚や錯覚や、あはて者が犢鼻褌を幽霊と間違へたといふ程度の実例を列べたに過ぎないが、近頃或る一派の連中は霊魂の実在、即ち幽霊や化け物の存在を真剣に研究してゐる。しかしこれを一笑に附してはイケない。化け物がゐると信じてゐる人に取つては化け物はゐる、ゐないと信念次第でどうにでもなる。例へばどんな醜婦でも飽くまで惚れた目で見れば美人だ。どんな美人でも飽くまで嫌つた目で見れば醜婦だ。昔の人は兎角化け物があると信じたから化け物が沢山出て来た。今の人は兎角化け物はないと信ずるから出なくなつたまでのことである。
 結局は予は化け物がゐてもゐなくても構はない。只だ化け物が面白いのである。若しも化物がゐるならば、予のやうな化物崇拝者の前に現はれてもよささうなものだが幸か不幸か、まだ一度も化け物にお目にかゝつたことのないのは何より残念なことである。


三、化け物の分類


 さて、こゝに大に考ふべきことは、抑々化け物とは何ぞやと云ふ問題である。これを広義に解釈すれば、妖怪変化、悪魔、精霊等、即ち所謂怪異なるものは一括して皆化け物といへるが、これを狭義に解釈すれば、化け物は怪異のうちの一種類である。
 予の考へでは、凡そ怪異には三つの大部門がある。
第一は即ち化け物で、これは或るものが他のものゝ形に化けるので、其の大多数は動物に属する。就中、狐や狸は最もよく化けるといふが、其の他貂、鼬、獺、猅の如き狡猾陰険な動物は大体化けるとしてある。彼等の化ける動機にも色々あるが、多くは悪戯のためと報復のためである。悪戯とは、例へば狸が大入道に化けて旅客を脅すの類で、これは多くは滑稽味を帯びて陽気なものである。報復のためとは、例へば鍋島の化け猫の如きもので、随分凄惨で陰気である。
 第二は即ち霊怪で、これはものに精霊があつて、其の霊が形を現はすのである。これにはまた三つの種類がある。一は即ち幽霊で、死者の霊魂が形を現はすもの、二は即ち生霊で、生者の魂が形を現はすもの、三は即ち精霊で、非情物の精が人の形に現はれるものである。幽霊は現世に執念が残つて冥界から逆戻りして来るもの、生霊は何か深い意趣があつて祟るもので、いづれも恐ろしいものが多い。しかし精霊は多くは美しいものか哀れなものである。各種の花の精などは最も美しいが、巨樹老木の精には哀れなものや凄いものも可なりある。植物以外の自然物にも時々精霊の現はれることがある。雪女などは其の一例である。
 第三は悪魔で、これは化け物でもなく、霊怪でもなく、始めからおそろしい妖怪的な姿を有てる超人間の生物である。印度の悪魔羅刹などには随分獰猛な奴があり、日本の邪鬼にも頗る振つたのがある。風神、雷神などの姿も慥に化物的であり、悪神でなくても、容貌の怪異なものは随分ある。
 此の三大部門の他にはなほ若干の種類もあり、また甲の部門から乙の部門まに転籍するものもあり、更に甲乙両部門の中間に位するものもあるから、実際怪異の種類は非常なもので、これを適当に分類するのは容易なことではない。


四、化け物の分布


 世界の化け物の分布を見ると、千紫万紅とり/゙\に面白いが、試に其の一端を話して見よう。
 まづ支那では、其の歴史の劈頭に於いて化け物が現はれる。伏羲は蛇身人首であり、神農は人身牛首とある。動物では、龍、鳳、麟、辟邪、白澤、夔、饕餮なんどは何れも化け物階級のものであるが、更に山海経などに不思議な奴が現はれる。西遊記の中の化け物に至つては実に言語道断なものがある。さすがに支那な化け物製造に妙を得てゐる。
 目を転じて印度から西亜を見渡すと、化け物世界は更に豊富である。印度のラーマ武勇伝の中には迚も雄大な化け物が出て来る。元来印度の神話や伝説は殆ど総て怪異的であり、第一釈迦がすでに円満微妙な化け物である。三十二相具足といつて、頭のテッペンに肉瘤があつたり、指の間に水搔きがあつたり、全真が金色であつたり、睾丸が馬玉の如くであつたりする。
 印度教の説くところには更に大袈裟な化け物がある。第一シヴァとヴィシスの両神は、其の身を種々雑多な形に変化し、半人半獣や三面六臂や、奇想端倪すべからざるものがある。シヴァの妻のカーリーといふのは、藍黒の顔に三眼が鋭く輝き、血汐滴る舌を吐いた姿は二タ目とは見られぬくらゐなもあのである。迦楼羅といふのは即ち金翅鳥のことであるが、鳥面人身で翼を張れば其の大きさ三百三十六万里、毎日一大龍王と五百の小龍を捕つて喰ふのである。此の話はアラビアン・ナイトに焼き直されて、ロックといふ巨鳥が大蛇を捕つて喰ふことになつてゐるが、日本に焼き直されては烏天狗になつて仕舞つた。
 アラビアン・ナイトには此の他化け物話が沢山あるが、あの地方には昔から怪異談の優秀なのが多い。波斯のルステム武勇伝の中の驢馬の化け物などは最も痛快である。
 西洋の化け物にも可なり珍なのがあるが、其の現はし方がすべて写実的であるから一向面白くない。元来西洋の奴等は理性が勝ち過ぎてゐて空想力に乏しいから、到底東洋のやうな偉大なる、または深刻なる化け物は作り得ないのであらう。希臘では上半が人で下半が馬のケンタラル、人身蛇足のギガントス、獅頭蛇尾で背中から羊の頭が飛び出たキメラ、人身羊脚のサチルス、人身魚尾のヒッポカンプ、翼のある馬のペガサスなんど随分変つたものではあるが、何分モデルを使つて写実一点張りに拵へ上げた形だから、不自然の感があるばかりで、一向化け物味が湧いて来ない。
 日本の化け物は東洋諸国に比べると、想に於いても形に於いても遠く及ばないのは残念である。神話の中にも化け物らしいのはない。日本霊異記や今昔物語、降つて其の後の伝記に随分化け物も出て来るが、偉大なる化け物や高遠なる妖怪は少い。いづれも小規模または浅薄なもので、深味も凄味も足りない感がある。畢竟国土が狭くて自然の現象が平凡なのと、国民が平和で極端な空想を描き得ないためであらう。


五、化け物の芸術的意匠


 化け物は芸術上可なり面白い題材として取扱はれてゐるので、建築に、絵画に、彫刻に、工芸品に古今東西の作例が夥しくある。日本では建築に殆ど化け物を使はないが支那では盛んに使ふ。殊に屋根飾は化け物だらけである。印度には更に多い、殿堂の壁面に無数の化け物が彫刻されてゐるのがある。西洋では巴里のノートル・ダムの怪獣がよく知られてゐるが、あんなものはいふに足らぬ。まだまだ奇抜な例が随分ある。近頃独逸のハイネの作つた悪魔杯は世界稀有の傑作である。
 化け物は主として絵画に描かれるが、日本でも所謂百鬼夜行の図の如きは古来幾通りもある。しかし何れも有りふれた変哲のない、可笑味も凄味もないもので、構想からも筆致からも、余り感服の出来ないものである。
 元来化け物が実在のものでない以上、どんな奇怪な不自然なものでも差支えない筈である。従つて其の意匠は絶対に自由であり、誰にでも勝手に描ける筈であるが、さて実際やつて見ると中々さう無造作ではない。
 予の親友に画伯がある。彼はある時同人数名と化け物会を催し、銘々出来るだけの意匠を絞つて精々新しい変つた化け物を描いて互いに品評し合つたことがある。しかるに其の作品は何れも言ひ合したやうに依然としてありふれた三ツ目入道、一ツ目小僧、摺小木に羽根、行燈に轆轤首と云つた程度のものばかりで、これぞと云ふ眼新しい化け物はなかつたので、一同更に化け物の新案の六ヶ敷いに感心した。画伯は此の話を齎して予に所感を問うたから、予は次のやうに説明したのである。
 凡そ化け物の形には何等拘束がないから、これを現はすことは甚だ自由で容易なやうであるが、それが却つて六ヶ敷い所以である。真人間を標準としてこれを写せばよいので標準があるから描き易い。標準のない物を描くには、其の原動力は画才でなくして、空想力である。縦横無尽の画才があつても、一点空想力を欠くものは化け物を描くことが出来ない。絵画の技工はなくとも空想力が発達してをれば化け物を描くには仔細はない。但し化け物の形に標準はないと云つても、実は何等か実在の或るものから暗示を得なければならぬ。此の暗示を求めることが人間を描く場合よりも遥かに六ヶ敷いのである。
 即ち化け物は決して誰にでも描ける芸当ではない。


――(完)――

(大正十四年七月、週刊朝日*4



伊東忠太「化けもの」 伊東忠太 著 / 伊藤忠太建築文献編纂委員会 編『伊東忠太建築文献 第6巻 論叢・随想・漫筆』 龍吟社 1937年 636〜641頁)

文章の大意はほぼ「妖怪研究」で述べられている内容と同じで、大きく違うところはない。
関心を寄せている範囲も、日本よりも中国、中国よりもインドの妖怪造形を評価している点で一貫している。
注目すべきは、後半の挿話の、親友のとある「画伯」が「同人数名と化け物会を催し」、新意匠の化け物の絵を描いて品評し合ったという話があるのだが、これは「妖怪研究」のほうには見られず、興味深い。
画家たちは各々集まって今までにない妖怪画を描こうとするのだが、蓋を開けてみれば示し合わせたかのように、一つ目小僧や轆轤首などの旧来よくある化け物の絵ばかりであった……という話である。ありふれた化け物のラインナップに、「三ツ目入道、一ツ目小僧」と並んで「摺小木に羽根」がいるのが、現代との違いを思わせるが、何を以て妖怪画、化け物の絵とするか、という論題は時代を越えて一考の価値ありとも思える。


また、この文章の中で伊東忠太はこの化け物の造形はよい、これはよくないと世界中の化け物について、ズバズバと判定を下している。一方、冒頭で自分が「漫画」を描くと何でも化け物っぽくなってしまうと述べたうえで、最後は「化け物は決して誰にでも描ける芸当ではない」という一文で〆るところからは、自らの妖怪趣味に対する強い自負が感じられる。


それにしても、

しかしよく考へて見ると、誰でも化け物とは極めて親しみが深い筈である。

化け物に興味を有つのが当り前で、興味を有たぬ人は余程の変り者である。

予のやうな化物崇拝者の前に現はれてもよささうなものだが幸か不幸か、まだ一度も化け物にお目にかゝつたことのないのは何より残念なことである。


と、言い放つあたり、伊東忠太の妖怪・化け物への相当の入れ込みようが窺える。
特に「まだ一度も化け物にお目にかゝつたことのないのは何より残念なことである」という箇所は、忠太の別の随筆「幽霊」*5で述べられていた、「いかでも我も尾花を幽霊と見得ぬものかはとて、精神を籠めて乱れそよぐ尾花をやゝ暫く見詰めて」*6いたという態度ともそのまま通じるものがあるだろう。
ついつい、常日頃から怪異の現出を渇望していた“化物崇拝者”伊東忠太の姿を想像してしまう。



(追記)
気づいたのだが、青空文庫伊東忠太「妖怪研究」に、「初出:「日本美術」 1917(大正6)年」とあるのだけれども、雑誌『日本美術』は1916年12月の第198号で一度休刊になってるので、これは誤りではなかろうか。 
では何故、青空文庫が初出をこのように書いているかというと、底本としている『木片集』(萬里閣書房、1928年)が出典を「大正六年「日本美術」」としているからというだけの話なのだが*7。こういうの、書誌情報的に難しいところである。

伊東忠太「妖怪研究」は、日本美術院の機関誌『日本美術』第17巻第6号(大正4年5月)「講演会記念号」(日本美術社、1915年)に掲載された講演録が初出と思われる。
ちなみに、雑誌掲載時の原題は「化物研究」であった。

*1: "図書カード:妖怪研究 - 青空文庫" https://www.aozora.gr.jp/cards/001232/card46337.html

*2:伊東忠太建築文献〉(全6巻)、竜吟社刊(1936〜37年)。のちに、原書房より〈伊東忠太著作集〉(1982〜83年)として復刊。

*3: "伊東忠太建築文献 : 6巻. 第6巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション" http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1834719/348

*4:こちらの「週刊朝日」の初出は未確認。

*5: 過去記事参照。→"伊東忠太「幽霊」(「今昔小話」より) - 猫は太陽の夢を見るか" http://d.hatena.ne.jp/morita11/20130112/1357981068

*6: 伊東忠太「幽霊」(「今昔小話 二五」) 伊東忠太 著 / 伊藤忠太建築文献編纂委員会 編『伊東忠太建築文献 第6巻 論叢・随想・漫筆』 龍吟社 1937年 446頁

*7: "木片集 - 国立国会図書館デジタルコレクション" http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1226065/186