【妖怪メモ】石川県の郷土誌に見られる妖怪まとめ(3)

 前回の続き(たぶん今回で最終回)。
 今回はとくにざっと調べただけではよくわからなかったもの、説明のつけ難かったものを中心に並べているので解説は本当に思いつきのメモ程度。
  前々回⇒"【妖怪メモ】石川県の郷土誌に見られる妖怪まとめ(1)"
  前回⇒"【妖怪メモ】石川県の郷土誌に見られる妖怪まとめ(2)"

※地域欄の自治体名は2015年現在の表記と区分を採用しているが個人で確認できた範囲なので正確性について疑問符の付くものもあるかもしれない。
※掲載順は引用文献の発行年、ついで頁順による。
※引用文中の原文にある旧字体は適宜新字体にあらためたが、かなづかい等はそのままとした。
※引用文中には今日の人権意識に照らして不適切と思われる語句や表現が含まれているが、当時の時代背景や資料的価値を鑑みそのままとした。
※各項目の「地域」の表示は、あくまでそれぞれの話の舞台となっている地域を指し、必ずしもそれらの採集地を保証するものではない。


凡例:■妖怪名 | よみ | 伝承地域

■六部の鏡 | ろくぶのかがみ |  地域:石川県小松市田野町

 正徳元年、美作国川北郡桑村の人彦三郎なるもの、六部となりて諸国巡礼中、偶本村字二ツ梨に至りしに、俄に病を起し苦悶せりしを南部某の為に発見せらる。彦三郎は大人なるにも拘らず乳を飲みたしと請ひしかば、某は之を村人に告げしに、西村家の老母憐みて哺乳せしに、彦三郎大に喜び、其の謝礼として一個の円形柄付鏡を贈りて死せり。これより後西村家に在りては、長子たるもの此の鏡を見るときは、必ず精神に異常を来すの恐ありといへども、之を有する間は財産の衰ふることなしと伝ふ。六部の墓は本村より那谷村に至る道路の傍らにあり。
(江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年、722〜723頁)

 小松和彦『異人論』に則るならば、この「六部の鏡」の話は、これとは別に伝承されていたであろう「異人殺し」の話が公的刊行物に収録される時点で、あるいは後代のひとびとの読み換えによって「異人歓待」の物語として「変形」された話であると推測することができる*1。だとすれば、“六部が謝礼に鏡を残して病死した”という部分は“村を訪れた異人が財産を強奪されて殺された”という話の、また「長子たるもの此の鏡を見るときは、必ず精神に異常を来すの恐あり」という部分は“殺された異人の呪いによって富家の子孫に障害者が出る”という話のそれぞれ変形であると見ることができるだろうか。
 「異人殺し」の話型から考えると、乳を請う六部とそれに応じて哺乳する老婆という要素はいささか唐突な印象を受ける。「変形」される前の原話にはそれなりの文脈があったのかもしれないと想像することも可能だが、よくわからない。



■ちっきんかぶり | ちっきんかぶり |  地域:石川県能登島郴目〜八ヶ崎付近

 往昔郴目八ヶ崎(東島)の間を流るゝどうの川といふ小川あり、其の川にちつきんかぶりといふ怪物すみ村民を害すること甚しかりしが与助、惣左衛門の二人小屋の谷といふ所に住みしが、村民のため百方苦心の末其の怪物を斬り殺せしといふ。二人は小屋ものなりしが其の功を賞し村民と居を同ふするを許せしといふ。其の怪物を埋めたる所をどんだといひ松を植えて記念とす。「与助、惣左衛門の抜いた刀鞘は竹でも身は本物や」の俚謡は二人の勇を称せるなり。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、949頁)

 怪物退治英雄譚のひとつ。また、被差別民であるところの「小屋もの(小屋者)」が村へ居住を受け入れられるストーリーを含む。柳田国男「狼と鍛冶屋の姥」(『桃太郎の誕生』)に「ちっきんかぶり」に関する言及があるが、そこでは『石川県鹿島郡誌』の記述に触れて、「(...)またチッキンというのはどんなであったかわからぬが、/与助惣佐衛門の抜いた刀/鞘は竹でも身は本ものや/という俚謡が伝わっているから、これだけは別にもう一本の刀を隠しておいて切ったというような話があったのかと思う」*2と述べ、刀を捨てたふりをして怪物を欺きもう一本の本物の刀を出して斬り殺したという話型がもともとの話だろうと推測がされている。



■小祠の怪物 | しょうしのかいぶつ |  地域:石川県七尾市白鳥町〜同百海町付近

 白鳥(北大呑)と百海との間に海岸に沿ひてたぶの木に蔽はれし一小祠あり。何時ともなく此の地に一種の怪物現はれて人を悩ませしが、庄屋重造所用の事ありて庵へ赴きしが其の帰途夕方此の地を過ぎしに怪物あらはれたるが重造の佩刀独り鞘を脱け出でて怪物を切付く、重造家に帰りてこれを検むれば鮮血淋漓として刀を染めたりといふ。此の怪物は時々海に入り鯨となりて人を誑かせしと。今は廃れたるが毎年六月二十日山崎の大畠家より此の小祠に至り怪物の害を防ぐ為め弓を射るの神事ありき。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、949〜950頁)

 不詳。怪物退治の英雄譚のひとつ。刀がひとりでに脱け出して怪物を斬りつけたという一種の報恩譚でもある。正体不明の怪物・化け物が何かに化ける話は数多いが、鯨に化ける話は比較的めずらしい部類かもしれない。



■どす神 | どすがみ |  地域:石川県鹿島郡中能登町能登部上ロ70

 上(能登郡)能登部神社の苗裔祭(ばつこまつり)は子の刻に始り丑の刻に終る、神官供奉の人々上の宮より西馬場*3に至り神礼を取出し澤井一楽後向に背負ひ上の宮に帰り奥殿におさめ奉るが、後向に背負ふは癩病神(どすがみ)なるが故にて途中人に遭ふを忌む、もし人に遭はば喰殺せとの神託ありて途中誤つて出御の列に遇ひ神礼を眼にせんか其の人立ち所に癩病になるといふ。祭事は十一月十九日なるが神無月は神々の縁結のため何れも出雲へ出でますに、此の神は癩病神なれば出雲へも参られず他の神々の留守の間にとて祭事を行ふものなりといひ伝ふ。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、968頁)

 「どす」はハンセン病を指す方言だが蔑称に当たるため現在は使われない。本文中の「ばっこまつり」は現在も続く能登部神社の例祭「苗裔祭」の通称である。「ばっこ」とは、大己貴神(おおむなちのかみ)が能登の地に巡礼したときに、地元の神であるノトヒコとノトヒメに「わが初子(はつこ)となす(=自らの身内に加える)」と言ったという社伝に由来するという(『石川県大百科事典』2004年)*4。『能登部町誌』(1936年)によれば苗裔祭は毎年11月17日〜21日の5日間にわたって所役6氏が集まって執り行い、19日の祭事(奉還式)については「当夜子の刻所役(前記の外一楽氏を加ふ)一同神職宅に参集沐浴終りて子の刻食膳に向ふ、料理等凡て古式に因る、食事の最後に飯湯並に握飯を盛る、一汁二菜、飯は菜飯とし神酒は濁酒となす。終りて修祓し、澤井一楽氏神籬を捧持して隣区西馬場愛宕神社へ参り、神籬を勧請し当社へ還御し奉りて直会あり。此の夜出御より当社著御に至る供奉者無言たり、道筋は専ら静粛を旨とし、屋内と雖も言語を禁じ往来人あるも畏敬して逢はざるを例とす、苗裔祭俗にかきばつこ祭といひ夜この行列に遭へば祟りを蒙ると云ひ、時雨の夜遥に響く神楽太鼓の音にも忌慎しみしものなり」と記す*5。『石川県民俗資料緊急調査報告書』(1975年)の該当項には「氏神能登部神社の祭礼のうち19日夜の神迎えの神事は、旧十村と旧高持百姓のうち7軒の家筋のもののみによつて、行われた。村人はこの祭礼をバツコ祭り或いは、ドスバツコと呼んでおる」*6とある。いずれも「どす神」そのものや疫病神信仰に関する言及はない。ネット上で検索すると観光サイトや実際に祭りに行ってきた人のブログ記事等がヒットするが、苗裔祭が「男神である能登比古神が年に一度、西馬場入合の愛宕神社の女神と逢瀬を交わす」*7という子孫繁栄を願う神事であり、道中無言であるという以上の情報はあまり詳しくは出てこない。上記引用文献の中に男女神の逢瀬についての記述が見られないことも気になるがよくわからない。



■やいこん婆 | やいこんばばあ |  地域:石川県小松市鵜川町

 鵜川御坊屋敷の川下に清流岩に砕け、小さな滝となり滝壺が淵をなし幾百年を経た欅の老樹が淵の上を被つている所がある。昔からこの欅を伐ろうとすると切り口から血が流れるといわれ、夜遅くなるとその川に白髪の婆さんが茶釜を洗うと村人から怖わがられている。昔は盆の十三日の夕、聖霊迎えに子供が家々から藁を集めて、この樹の下で迎火を焚く習わしであつたが、大きな火を焚いても木の葉が焦げなかつたといつている。この迎火の行事も大正年間に廃れてしまつた。
国府村史編纂委員会編『国府村史』、国府村役場、1956年、556頁)

 『石川県能美郡誌』(1923年)には「悪疫の流行する時、老人夫婦の人形を造りて、之を荷車に載せ、太鼓等にて囃立て、部落を一周したる後、付近に至りて之を流すことあり、之をヤイコノババと称す、旧時は屢々行はれしが、近時其風を断ちたるを以て、稍々迷信の勢力を失ひし如くなりしも、大正七年十一月悪性流行感冒の際、白江村白江区民が復たこのヤイコノババと行ひしを見れば、旧習の容易に脱し難きを知るべきなり」*8とあり、また『改訂 綜合日本民俗語彙』(1985年)にも「ヤイコノババ」の項目があり「石川県能美郡で、疫病神送りにつくる老人夫婦の人形をこう呼ぶ。荷車に載せ太鼓などで囃して部落を一周し川に流す。金野村のヤイコンババは、船に載せて担き廻るという。ヤイコとは半日休業のことというが、半日休んでババを送る意か」*9とある。柳田国男は「神送りの人形を二つ作っている例」を挙げた文章の中で、「加賀の能美郡で疫病神送り、またガイケの神送りと称して、荷車に乗せて部落中を牽きまわり、終りに川へ流す人形なども、その名を、/ヤイコノババ というが、その実は老人夫婦の人形でもある。村によっては今でも舟に乗せて担ぎまわるというが(郡誌)、こちらが多分前の型であろう」*10と述べ、三河の南北設楽郡(現愛知県新城市及び北設楽郡)で毎年2月8日に行われる「オカタニンギョウ」がこれに近いものであるとする*11柳田国男「神送りと人形」1934年)。おそらく『国府村史』の「やいこん婆」より『石川県能美郡誌』等の「ヤイコノババ」のほうが原義だろうと推測されるが、であるならばなぜ「疫病神送りにつくる老人夫婦の人形」が「夜遅くなるとその川に白髪の婆さんが茶釜を洗うと村人から怖わがられている」という怪談めいた話に変わっているのかといえば、これもやはりよくわからない。



■むくろじ坂の老人 | むくろじざかのろうじん |  地域:石川県能美市仏大寺町

 仏大寺の無患子坂(トンネルの東口)に夜遅くなると白髪の老人が畚を下に、路傍に腰をおろして無言で休んでいるという伝えがある。
国府村史編纂委員会編『国府村史』、国府村役場、1956年、556頁)

 不詳。畚(もっこ)に座っているというので山林の土木作業従事者に関連する話だろうか?



■死人道 | しびとみち |  地域:石川県白山市白山町

 白山比咩神社の門前である神主町(特にかたがり地蔵前の石橋)を死人が通ると天候が荒れるといわれていた。一ノ宮より南の村の人が病院などで死亡した場合、現在の一ノ宮駅から八幡へ登って三ノ宮を通り白山へ下りた。この道をシビト道と言ったのである。急に天候の荒れる日があると、神主町では死人が通ったのではないか、とうわさになったほどである。そのため、一ノ宮より南の村の人が病院などで死亡すると、神主町を通さないようにするため、夜を徹して見張りをすることもあったという。戦後この風習はなくなったが、それでも戦後しばらくの間は、死人が通る時はかたがり地蔵前の石橋に塩をまいて浄めて渡ったと言われている。
(一ノ宮郷土誌編集委員会『加賀 一ノ宮郷土誌』、一ノ宮公民館、1983年、478〜479頁)

 白山比咩神社参道あたりという、かなり具体的に場所の範囲が特定できる話。「シビト」は白山麓地域における死骸、死体の呼び方である。白山信仰に関わる話であろうと思われるが、不詳。



■とっとろの岩、とっとろの鳥 | とっとろのいわ、とっとろのとり |  地域:石川県白山市白山町

 とっとろの岩の下には漆や黄金などの宝物が埋められている、と言い伝えられている。とっとろの岩のありかは八幡と小原の境あたりと言われているが、それを知る人はいない。一説には朝から夕方まで太陽が一番長く当る場所と言われている。また、ある人は、とっとろの鳥の鳴き声を聞いた者だけがそのありかを知ることができる、と伝え聞いている。しかし、とっとろの鳥がどんな鳥かを知る人はいない。
(一ノ宮郷土誌編集委員会『加賀 一ノ宮郷土誌』、一ノ宮公民館、1983年、577頁)

 不詳。鳥の鳴き声もしくは黄金の在り処に関する俗信の一つか。あまり関連性はないかもしれないが、『石川県民俗資料緊急報告書 白山麓』(1973年)は鴇ケ谷(とがたに)(現石川県白山市鴇ケ谷)の伝説として「ムラの周囲一帯およびオイバヤシ(負林)あたりで夕方になると「トーキト」と鳴く鳥がいる。現在でも鳴くが、その正体を見たことがない。このような鳥の鳴き声に因んで鴇ケ谷という名が付されたという。「トーキト」と鳴く鳥は出作り山では未だ聞いたことがないという人が体験を語っている程である」*12という地名由来譚を載せる。



■長谷の白蛇主 | はせのはくじゃぬし |  地域:石川県白山市月橋町

 下月橋に今は死去されたが、大滝の七という人が、月橋光徳寺に昭和二十年三月下旬に来て「お経を上げてほしいから来てくれ」といわれたので住職が行くと「山行きの装束に変えて来てくれ」とのことで再び山行の装束に変えて行くと、月橋と小柳との中間に長谷谷川があり川添いに細い道を登り、道すがら懺悔して話されるに「一年前の今日この谷奥にて薪を伐っていると、一匹の白蛇を見つけて頭をつぶした時、赤い血をたらりと出して死んでしまった。その日から発熱し病名不明の入院をして血を吐くまでになった。その時になり以前の白蛇の血を思い出し全身に寒気がして、これは白蛇のたたりと思い、初めて念仏が出て白蛇に詫びるために今日住職に来てもらって供養してもらったのだ」と、よろこびよろこび帰られた。その後、元気になって念仏者になられたと聞く。二、三日後小柳村の炭焼さんの話によるとその晩炭釜の廻りに音楽でざわめいて、寝ることができず翌朝谷川に下りて見ると、谷川のほとりにローソクや仏花、線香のあるのに驚き逃げ帰り、不思議なこともあるものと話された。後日僧侶による供養のてんまつを聞き、昔から長谷の白蛇主といわれていた大蛇がこれであったのだろうと噂された。その後だれも白蛇を見た人もいなかったという。
(蔵山郷土誌編纂委員会編『蔵山郷土誌』、蔵山公民館、1983年、768頁)

 不詳。主の蛇に関する話は数多くあるため類例を挙げることは避けるが、戦時下に起こったとされる出来事として興味深い事例。



■ヨウダツ | ようだつ |  地域:石川県能美市辰口町岩本

 天狗岩の近くに往生寺という所があって、小さい頃よく友だちと蛍をとりに行ったものや。ある晩、いつものように蛍をつかまえに行ったら、谷川の所に誰かしゃがんでいた。「おい、だれや」と声をかけたら、ブルブルというて、その人の身体が大きくなった。びっくりして後ずさりしたら、またブルブルというて大きくなった。やっとの思いで家へ逃げ帰って、家の人に話をしたら、「あーそりゃ、わらにゅうみたいな大きさになったやろ、ヨウダツというバケモンや。よう出るがや」と話してくれた。
辰口町史編纂委員会編『辰口町史 第1巻 自然/民俗/言語編』、石川県能美郡辰口役場、1983年、592〜593頁)

 不詳。「わらにゅう」というのは“わらにょう”(=藁堆。刈り取った稲を乾燥させるために積み重ねたもの)の派生方言か*13。「わらにょう」で画像検索してもらうとわかるが、実際にこれが川岸にいたらけっこう怖いだろうなというサイズであることが想像される。



■消えたイヨモン | きえたいよもん |  地域:石川県能美市辰口町和佐谷

 うら(わたし)の男親が若い頃、遊んどって家へ帰る時、辻さんの前の橋の所に、大きな笠をはめたでかい(大きい)男が向うをむいてずぼっと立っとるのを見たそうや。てっきり(きっと)イヨモン(和佐田の男)がわしをだますがやと思うて、「イヨモン、イヨモン、わしをだますなや」というて、イヨモンを背中から抱えようとしたら、ピシャピシャと消えてしもうた。
辰口町史編纂委員会編『辰口町史 第1巻 自然/民俗/言語編』、石川県能美郡辰口役場、1983年、593頁)

 不詳。「イヨモン」が化け物を指す語なのかどうかも上記引用文では、はっきりしていない。しかし話の内容よりも「ずぼっと立っとる」とか「ピシャピシャと消えて」とか擬音が独特なのが気になってしまった。




【主要引用文献一覧】
・江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年
国府村史編纂委員会編『国府村史』、国府村役場、1956年
・一ノ宮郷土誌編集委員会『加賀 一ノ宮郷土誌』、一ノ宮公民館、1983年
・蔵山郷土誌編纂委員会編『蔵山郷土誌』、蔵山公民館、1983年
辰口町史編纂委員会編『辰口町史 第1巻 自然/民俗/言語編』、石川県能美郡辰口役場、1983年

*1:小松和彦「異人殺しのフォークロア その構造と変容」『異人論――民俗社会の心性』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年、11〜92頁

*2:柳田国男『桃太郎の誕生』(角川ソフィア文庫)、角川学芸出版、2013年[新版]、341頁

*3:石川県鹿島郡中能登町西馬場

*4:北國新聞出版局編『書府太郎 石川県大百科事典【改訂版】 上巻』、北國新聞社、2004年、782頁。同書の「能登部神社」の項目(685頁)も参照。

*5:清水一布編『能登部町誌』、能登部神社々務所、1936年、34〜35頁

*6:石川県教育委員会編『石川県民俗資料緊急報告書』、石川県教育委員会、1975年、66頁(大島時雄 / 杉崎憲三 / 宮本袈裟雄 / 今村充夫編『日本民俗調査報告書集成 中部・北陸の民俗 石川県編』、三一書房、1996年、76頁)

*7:"ばっこ祭り" http://noto-satoyamasatoumi.jp/detail.php?tp_no=180

*8:石川県能美郡役所編『石川県能美郡誌』、石川県能美郡役所、1923年、323頁

*9:民俗学研究所編著『改訂 綜合日本民俗語彙 第4巻』、平凡社、1985年(第二版)、1610頁

*10:柳田国男柳田國男全集 16』(ちくま文庫)、筑摩書房、1990年、645頁

*11:柳田国男、前掲書、647頁

*12:石川県郷土資料館編『民俗資料緊急報告書 白山麓』、石川県郷土資料館、1973年、188頁(大島時雄 / 杉崎憲三 / 宮本袈裟雄 / 今村充夫編『日本民俗調査報告書集成 中部・北陸の民俗 石川県編』、三一書房、1996年、390頁)

*13:尚学図書編『日本方言大辞典 下』、小学館、1989年、2585頁