【妖怪メモ】石川県の郷土誌に見られる妖怪まとめ(2)

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※地域欄の自治体名は2015年現在の表記と区分を採用しているが個人で確認できた範囲なので正確性について疑問符の付くものもあるかもしれない。
※掲載順は引用文献の発行年、ついで頁順による。
※引用文中の原文にある旧字体は適宜新字体にあらためたが、かなづかい等はそのままとした。
※引用文中には今日の人権意識に照らして不適切と思われる語句や表現が含まれているが、当時の時代背景や資料的価値を鑑みそのままとした。
※各項目の「地域」の表示は、あくまでそれぞれの話の舞台となっている地域を指し、必ずしもそれらの採集地を保証するものではない。


凡例:■妖怪名 | よみ | 伝承地域

■千両女郎 | せんりょうじょろう |  地域:石川県珠洲市仁江町

 往昔谷内に千両女郎と仇名せられたる美人ありしが、腋下に二三の魚鱗あるを認めたるものあり、後ち其の行く所を知らずといふ、
珠洲郡編『石川県珠洲郡誌』、石川県珠洲役所、1923年、799頁)

 短い一節ではあるが、“脇の下に2,3枚の鱗がある女性”という特徴的なキーワードを含む話。さらにはこれが近代以前の北陸地方に伝えられていた話である(と公的な郷土誌に記録されている)ことに注目したい。堀麦水『三州奇談』巻二「淫女渡水」には「女の死骸は引上げけるに、其脇の下に鱗のごときもの三枚づゝ有けるを、其骸見し人の物がたり也」という描写がある*1高田衛『女と蛇 表徴の江戸文学誌』(1999年)では『三州奇談』のこの記述に関して「「鱗の如き物三枚」というのは、いうまでもなく竜蛇のシンボリズムにまつわる(文化人類学でいうところの)聖痕(スティグマ)であって、この聖痕によって女の魔性が暗示されるわけである。悲恋伝説の女の側を、なかば妖怪化してゆくところに、世間話を媒介とした〔※引用者註:『三州奇談』「淫女渡水」の〕第二話の性格がみられる」*2と述べている。この見解に対して、堤邦彦『女人蛇体 偏愛の江戸怪談史』(2006年)では同じく『三州奇談』巻五「北条旧地」について「蛇形の神女の伝承をともなう北条氏の三鱗形系図を富山で手に入れた北条早雲の故事を紹介したあとに、「北条旧地」は頭に三鱗のある魚の俗信に言いおよぶ。もし妊み女がこれを食べて出産すると、男児なら英雄、女児なら淫婦になるといった口碑から、この当時の北陸地方に鱗を淫婦のスティグマとみる習俗的な心意伝承が根茎をはりめぐらしていたことを想察しうるだろう」*3と述べている。
 「千両女郎」も北陸地方におけるこのような背景のもとに伝えられた事例かあるいは『三州奇談』から派生した話だろうか(「千両女郎」の話が語られ出したのが先か『三州奇談』の成立が先かは、まあ、はっきりとはわからないわけだが)。



■頭無堤 | あたまなしつつみ |  地域:石川県小松市田野町

 今を去る二百七八十年前に開鑿せしものにて貯水池として用ひらる。盂蘭盆当日の正午人影を水面に映ぜしめて、頭を見る能はざる時は、翌年の盂蘭盆までに必ず死ぬといふ。
(江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年、722頁)

 読みは推測による。引用文中にある矢田野町の貯水池というのは下記「荒川の蝶」にもある矢田野用水のことか。
 水面に姿が映らないと死ぬという話は、怪異・妖怪伝承データベースに登録されている事例だと、たとえば奈良県五條市・常覚寺の姿見の井、和歌山県有田郡・法仙寺の弘法大師の手洗いの井戸、『宮城県史』(1956年)収録の月影などが確認できる。
  ⇒"姿見井 | スガタミノイ | 怪異・妖怪伝承データベース"
  ⇒"七不思議 | ナナフシギ | 怪異・妖怪伝承データベース"
  ⇒"(死の予兆),月影 | (シノヨチョウ),ツキカゲ | 怪異・妖怪伝承データベース"
 他にもたとえば、今野圓輔『日本怪談集 幽霊篇』(1969年)などを読むと、影が薄くなったり、影に首だけがなかったり、影自体がなくなったりするのを死の予兆とする俗信は喜界島(鹿児島県)をはじめとして全国にある*4
 また、鏡に顔が映らなければ死ぬという話は現代の学校の怪談や都市伝説などでもしばしば語られるものであるようだ。



■荒川の蝶 | あらかわのちょう |  地域:石川県小松市那谷町

 本川字那谷より県道を辿りて分校村に至る間、丘陵起伏するところに矢田野用水開鑿せられ、其の小手が谷の麓一円を荒川と呼ぶ。毎年二百十日の前後一週間に亘りて、日出前数千の蛾出でゝ盛に争闘し、堕ちて流るゝもの多く、用水路為に白色を呈するに至ることあり。これ延宝七年の頃、月津村の十村肝煎*5西彦四郎が、用水開鑿に関して、藩主の忌む所となり、所罰せられたる亡霊の現るゝものなりといはる。
(江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年、756頁)

 用水路を埋め尽くす数千の白い蝶(蛾)の群れを怪異と見なす話。このような蝶の群舞はしばしば見られる現象で蝶合戦や蝶雨と呼ばれる。今井彰や飯島吉晴によれば、古来より突然の蝶の大量発生は人々を不安にさせ異変の予兆とされたという*6。万延元年(1860)6月には江戸市中でも蝶合戦が見られたと言い、『武江年表』には「同晦日、本所竪川通に数万の白蝶群り来り、水面に浮び、或は舞ふ。あたりも*7雪の如し。その内五ツ目の辺、尤も甚しかりしとぞ」*8とある。万延元年のこの記録はしばしば時代小説の題材となり、岡本綺堂『半七捕物帳』、横溝正史人形佐七捕物帳』にそれぞれ「蝶合戦」という題の短編がある*9。池田浩貴「『吾妻鏡』の動物怪異と動乱予兆―黄蝶群飛と鷺怪に与えられた意味付け―」(2015年)によれば、大量の蝶が発生し飛び回ったという記録が『吾妻鏡』には5件、藤原定家『明月記』には2件あり、どれも何かの予兆と捉えられていたという*10。ちなみに、今井彰『蝶の民俗学』(1978年)では蝶雨の正体について「(...)「蝶雨」の蝶は本物の蝶とは限らず、(...)カゲロウ、ユスリカ、ウスバツバメガ、トビケラといった群である場合が多かったのではないかということがいえよう」*11という推測が立てられている。また、蝶と死んだ人間の魂を結びつける話については、数多くあるようだがとりあえずWikipediaの「チョウ」のページにもいくつか紹介されている*12
 引用文中にある西彦四郎(生没年不詳)と彼にまつわる逸話については『石川県江沼郡誌』にも記述があるが*13、『月津村誌』(1924年)により詳しい。少し長くなるが引用すると、「当家は月津村の十村にして、彦四郎は時代に傑出せる人物なりき、延宝七年十一月、大聖寺藩の老臣、神谷内膳、矢田野(天明六年迄は稲手外八ヶ村)村を巡視し広橋五太夫をして縄張を為さしめ、同八年二月下旬開墾の工を起し、小手ヶ谷水道堀割の工亦成り、同年八月二十三日終りを告げ新田一万石を得たり、此の工事の計画成るや、十村西彦四郎は新田開墾の不利なるを論じて大いに之に反対し、時の大聖寺藩主に奏上せり、藩主怒りて彦四郎及其家族を捕へて、業の濱(現今月津村字月津南端入口小橋の東方畑地)に於て刑す、彦四郎刑せらるゝの時に、臨みて曰く『魂魄此の世に残りて報いんと』死後果して種々の現象表はれたり、一は毎年八月二十三日には、朝早く小手谷(那谷地内)に特種の蝶表はれ、互に闘ひ相共に討死し、用水に落つと云ふ、一は彦四郎を埋没したる当村の墓場、(現今俗称澤山青年団所有桑園)に奇瑞はしたり、此墓及其附近の石を弄ぶ者は必ず虐に罹れり、村人は大いに恐れ、是れ彦四郎の祟りなりと、賽銭十二文及洗米石等を、此墓に捧げて参詣せしに、直に虐癒りたり、されば其後虐に罹りたる者は続々参詣する有様となり、奇妙に参詣者は全部平癒せり仍て村人相語ひて、明治八年其墓場に御宮を造営し澤山社と称して祭りたり、明治四十一年神社合併によりて、現在の白山神社境内に移転し、境内末社となれり、又当家の屋敷跡は俗に位負をなして、其屋敷内に住む家には何かの災難ありと伝ふ」*14とある。前項「頭無堤」も彦四郎の死後現れたという「種々の現象」と見なされていたもののひとつだろうか。




■日一期 | ひいちご |  地域:石川県鹿島郡中能登町久江

 久江付近は蛍多き土地にして、蛍合戦といひ数団の蛍火八谷口よりあらはれしものなりが蛍を道閑の亡魂なりといふ。
 五月の半ば頃里の流れに目口も明かぬ程数知れず飛交ふフタヲカゲロフを俗に日一期と称し蛍と同じく道閑の亡魂なりとす。カゲロフは近年著しく其数を減ぜしが、蛍も年々減少し蛍合戦の奇観の如きは今は全く昔話に過ぎざることゝなれり。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、950〜951頁)

 江戸時代初期、加賀藩の検地政策に反対し張りつけにされて死んだ十村頭・園田道閑(1626〜1668)の義民伝説*15に関連する話。このような藩の政策(とくに重税や検地、土木工事)への反発から村の代表者をある種英雄視する伝説は前項「荒川の蝶」の西彦四郎にもあるように(しばしばその史実にかかわらず)近世の農村によく見られるもので怪異とも結びつけられやすい。
 小西正泰『虫の文化誌』(1992年)では「意外なことに、日本にはホタルにかかわる民話は少ないように思う」と述べたうえで秋田県大曲地方に伝わる「九郎兵衛」の怨霊の話を紹介している。処刑された九郎兵衛という悪者とその家族の魂が死後に蛍火となって飛ぶというもので、供養されたのちは「そこはホタルの名所となって、にぎわったそうである」ともある*16。ホタルもカゲロウも人魂の正体のひとつとされる昆虫だが、ちなみに「蜉蝣(ふゆう)の一期」とは人生をカゲロウのように短くはかないことにたとえたことわざである*17




■しゅけん | しゅけん |  地域:石川県七尾市山王町

 昔七尾の山王社にては毎年みめよき町内の娘を人身御供に上げしが、或年白羽の矢は一人娘の某方に立ちぬ。娘の父は何とかして救ふ道もなくかと娘可愛さに身も忘れ一夜社殿に忍び入り息を殺して様子を窺ひしが丑満つ頃ともおぼしきに何ものともなく声のするに耳を立つれば、若き娘を取喰ふべき祭の日も近づけるが越後のしゆけんとてよも我の此処に在るを知るまじきと呟きしなり。娘の父は夢かと打喜びしゆけんの助けを籍らんとて急ぎ越後に赴き此処彼処尋ね求めしが何等の手がかりもあらざりき。今は望も絶えたり泣く/\引返へさんとせしが、山にしゆけんと呼ぶものありと聞きせめての心遣りにと其の山に分け入りしに、全身真白なる一匹の狼あらはれ此のしゆけんに何用ありやと問ふ、娘の父は喜の涙に声ふるはせながら事の次第を語り何卒娘の命を救ひたまへと願ひしに、しゆけんは打うなづき、久しき以前外つ国より三匹の猿神此の国に渡り来り人々を害せしにより我れ其の二匹を咬殺せしが所在をくらませし残りの一匹が程遠からぬ能登の地に隠れ居しとは夢にも知らざりき、いで退治しくれんと諾ひぬ。娘の父は更に祭の日の明日に迫れるを如何せんと打嘆けば、悲むなかれ我明日おん身を伴ひ行かんと波の上を飛鳥の如く翌くる日の夕方七尾に着きぬ。かくしてしゆけんは娘の身代りとして唐櫃に潜み夜に入りて神前に供へられぬ。暴風雨の祭の一夜格闘の音物凄く社殿も砕けんばかりなりしが、人々如何とて翌朝打連れ行きて見るに年古りたる大猿朱に染りて打仆れたるが、しゆけんも冷たき骸を横へぬ。かくして人々しゆけんを厚く葬りし上、後難を恐れ人身御供の形代に三匹の猿に因み三台の山車を山王社に奉納することゝなれりと。車の人を食ふといはるゝ魚町の山車は此の山王社に人身御供を取りし猿にあたれるものなりと伝ふ。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、951〜952頁)

 猿神退治伝説の一種。毎年、5月14日に七尾市山王町の大地主(おおとこぬし)神社(山王社、山王神社は同社の通称)で行われる青柏祭の起源にまつわる話*18。また、清酒時男『日本の民話21 加賀・能登の民話 第一集』(1959年)の話では、『石川県鹿島郡誌』を出典と明記しながらも少し違ったストーリーになっている。同書では、しゅけんははじめ「白装束の修験者」の姿で現れ、猿神退治後の亡骸の発見時に「しゅけんは実は白い大狼だった」ことが判明するという展開になっている*19。また、類話に関しては『日本伝説大系 第6巻 北陸編』(1987年)の「七尾の猿神退治」のページ等を参照*20
 Wikipediaの「青柏祭」の項目にも出ているもので、他の項目に比べると知られた話だが、犬ポジションの「しゅけん」がイケメン過ぎたのでピックアップ。



■お歯黒鮒 | おはぐろぶな |  地域:石川県七尾市古府町

 七尾城の陥りし際城中にあり侍女等生きて縄目の恥を受けんよりは寧ろ躬ら死するに如かずと打語らひ城中の池に身を投じて死したりと、この池に棲むお歯黒鮒は無残の最後を遂げし侍等の怨霊なりといふ。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、969頁)

 七尾城落城に関する伝説のひとつ。平家蟹や島田蟹のように死者の怨霊が動物の身体的特徴の由来とされている話の一種だろうか? 石川県加賀市大聖寺城(錦城)は山口宗永(1545〜1600)を城主としたがその落城にも似たような話「お歯黒ヘビ」があり、小倉學ほか『日本の伝説12 加賀・能登の伝説』(1976年)によれば「落城後、大聖寺藩士が錦城山に登ったところ多数のお歯黒ヘビ(毒牙が真っ黒)におそわれたという。山口父子・奥方・腰元たちの化身でたたりがあるといわれた。一説に金沢生まれの人が登るとお歯黒ヘビは山口父子のうらみを晴らすためにかみつくと伝えられている」*21とある。



■おかね火 | おかねび |  地域:石川県七尾市古府町

夏秋の頃小雨の夜十時頃より一角*22に一条の怪火起りふわり/\と七尾町に向ひ郡町付近に至りて消失す土地の人これをおかね火と称し、矢尽き刀折れ恨を呑んで討死したる畠山氏家臣の亡魂にして人もしこれに触るれば所に生命を奪はると伝ふ。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、969頁)

 怪火の一種。七尾城落城に関する伝説のひとつ。『石川県鹿島郡誌』では、前項「お歯黒鮒」に付随する話として紹介される。



■虚空蔵坊 | こくぞうぼん |  地域:石川県七尾市東三階町〜同県鹿島郡中能登町鳥屋町

 今を去る七百年前大三階(高階、現今東三階の地)に虚空蔵山に虚空蔵寺といふ寺ありしが幾箇の下寺を有せる大寺なりしと。或時小僧が和尚の使にて満仁の摩尼殿へ書状を持ち行く途中、如何したりけん其の書状を遺し一夜捜し求めしが遂に見当らず狂はん計り途方に惑ひし小僧は申訳なしとて哀れにも河に身を投げて果てぬ。其後春の末より秋の初にかけ二宮川に沿ふ高階鳥屋の間川堤の上をふはり/\と行きつ戻りつ、草木も眠る丑満つ頃西三階の淵のあたりにてふつと消失せる一団の怪火ありこくぞうぼんといふ。或年の夏屈強の若者数名盆踊の帰るさ正体見届け呉れんと川堤に出懸け稲の茂みに忍びしが、気丈者の一人がやう/\に認めしといふは裾のあたりは茫乎とせるが身の丈六七尺もあらんか蒼白き衣服をつけ稍うつむき勝ちに無限の悲愁と怨恨に悶え苦しむが如き大の男が足早に過ぎ行きしと。こくぞうぼんは此の投身せる小僧の怨霊といひ、或は主命を受けたる若党が途中大切なる状箱を遺失せしため淵に身を投げしが其の怨霊今も状箱は無きやと行きつ戻りつ探し求むるなりともいふ。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、969〜970頁)

 水辺で目撃されたという怪火の話のひとつ。河岸に現れる怪火に関して、1.虚空蔵山の虚空蔵寺の小僧が書状を失くし川に身投げした、2.武家の若い従者が主君の書状箱を失くし淵に身投げした...という2つの由来を挙げる。



■番頭火 | ばんとうか |  地域:石川県鹿島郡中能登町

 また長曾川と久江川との間を往来する怪火あり番頭火といふ、昔村番頭の大切なる書状を遺失し遂に病を獲て亡くなりしが一念今猶ほ往きつ戻りつ書状の在所を捜すなりと。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、970頁)

 怪火の一種。『石川県鹿島郡誌』では前項「虚空蔵坊」に関連するものとして紹介されている。内容にいくらかの異同を持ちながらもとにかく“書状を失くした使者の怨霊の火が飛ぶ”という点で大筋を同じくする話がいくつか伝わっていたということだろうか(怨霊となる人物も小僧、武士、番頭とさまざまであり、何か決定的な理由づけがあるようにはあまり思われない)。番頭火が飛ぶのは「長曾川と久江川との間」とあるので、現在の県道242号線久江西交差点付近の話か。



■けんどん下げ | けんどんさげ |  地域:石川県能美市和気町

 下和気の虚空蔵道にカツパ屋という藪医者が住んでいた屋敷がある。その前の川が折れて落ち水になつている所に小橋があつて、これを国造橋という。このあたりは竹藪がおおいかぶり藪の中に大きな榎が一本あつた。昔は夜遅くなると、この榎の上にけんどんさげという化物がいて、けんどん(千石篩)を縄で下げ、通る人がその中へ足を踏み入れると上からするすると釣り上げるといつて恐ろしがられていた。日暮れからの女や子供の独り歩きをいましめて作つた話かもしれぬ。
国府村史編纂委員会編『国府村史』、国府村役場、1956年、557頁)

 垂下の怪の一種。『改訂 綜合日本民俗語彙』(1985年)の「ケンド」の項目によれば「篩の目の粗いものを、愛媛県周桑郡、岡山県小田郡などでいう。富山県の中、下新川郡や、富山近在では、ケンドンという」*23とある。宮本常一『越前石徹白民俗誌』にはケンドではなく「クルワ」が下がってくるという類話が収録されている。同書には「また、大きなクルワを下げることがある。クルワというのは、ぬれたヒエやアワをほす時に用いるもので、桶の形をし、底が網のようになっているもので、それを家のまえにある梨の木からさげるという。近頃家のまえに梨の木のある家は少なくなった」とあり、これはタヌキの仕業であるという*24。この話は村上健司『妖怪事典』(2000年)および同『日本妖怪大事典』(2005年)では「クルワ下げ」として立項されているが*25、これは村上事典における命名であり引用したように原典である『越前石徹白民俗誌』に固有名詞的な呼称はとくに出てこない。ちなみに、引用文中にある「下和気の虚空蔵道」とは同地にある虚空蔵山の道の意で、前出の「虚空蔵坊」とはとくに関係がない。「カツパ屋という藪医者が住んでいた屋敷」というのも大いに気になるが、不詳。



■雨宮の陰火 or 天狐火 | あめみやのいんか / てんこび |  地域:石川県輪島市門前町

雨宮の陰火  此の雨宮の山は村の向なるに、夜中鬼火燈れり。此は毎夜の事にあらず。天気打続きもはや雨を催さんとせし前後には、必ずこの火見ゆ。邑人は天狐火と称せり。此火見ゆれば雨近づけりと言へり。火は山上を松明を携へて往来するにひとし。多少定からずといへり。
(諸岡村史編集委員会編『諸岡村史』、諸岡村史発刊委員会、1977年、1270頁)

 怪火、とくに天候の予兆に関するものの一種。「天狐火」という名称ではあるが、狐に関する逸話はとくにないようである。



■一老大権現 | いちろうだいごんげん |  地域:石川県金沢市清水谷町

 森本の山間集落清水谷の直乗寺(日蓮宗)に一老大権現(以下権現)という天狗を祀っている。本堂中央に一塔両尊四士と日蓮を祀り、左に権現・鬼子母神・観世音菩薩を祀る。権現像は笏を持った衣冠の座像で約三十センチ位で小さい。伝承によると権現は天狗中最高位で、元は高坂地内の森本川左岸の天狗壁に住んでいた。清水谷の長老の枕元へ「清水谷の寺にいきたい」旨の夢告があってから清水谷で祀り、人びとは親しみをこめて権現様といい、集落の守護神とする。明治以降の度重なる戦争では「出征しても、清水谷の兵隊は死なない」、清水谷の山地は険しいが「山仕事で怪我しない」、集落を国道が貫通しているが「交通事故にあわない」等の御利益があるとして信仰を集めている。十月二十八日、直乗寺で権現祭りがある。〔後略〕
金沢市史編さん委員会編『金沢市史 資料編14 民俗』、金沢市、2001年、387〜388頁)

 金沢市の天狗信仰といえば何より「九万坊」の存在がよく知られ、九万坊を祀る寺院は市内9ヶ寺を数える*26橘礼吉は九万坊と一老大権現の共通性を「庶民と戦争のかかわり方」であると述べて「黒壁山九万坊奥の院には出征兵士の生還祈願絵馬があり、清水谷には「権現の加護で戦死しなかった」等の事例報告がある。国は庶民に対し命を懸けた滅私奉公を強いたが、庶民は既成宗教とは無縁の神に、夫や子供の戦場からの生還を切実に祈願していたのである」*27と、天狗信仰と戦争の関係性を指摘する。このような天狗と戦争との結びつきは近代において金沢に陸軍第九師団が置かれていたことと無関係ではない。本康宏史『軍都の慰霊空間―国民統合と戦死者たち―』(2002年)には「(...)九万坊=天狗は、「武運長久」祈願に霊験があるとされ、地理的にも第九師団の野村兵営に近い関係で軍人の祈願も多く、日露戦争以後事変ごとにますます多くの信者をみた。日中戦争に際しては千数百枚の守護札を出したという」*28とある。
 戦時に天狗が信仰を集めたのは決して金沢だけの事例ではなく、全国でもいくつかの都市で見られたことだった。岩田重則は次のように述べている。「(...)部分的であったにせよ、戦時下に事実上の流行神として天狗信仰が大流行したことは、人間の生と死に大きくかかわる時代に天狗幻想が世相の表面にあらわれたという奇妙な事実を意味しており、そして、これが奇妙であるがゆえに、天狗と戦争の関係は、流行神であるとはいえ、緊迫した時代の集中的な信仰現象であったがゆえに、天狗信仰という視点から見れば、天狗信仰の本質的な部分を示すものであると考えられ、また、民衆の精神史研究という視点から見れば、近代日本人の精神生活の重要な断面を示していると考えることができる」(岩田重則「天狗と戦争―戦時下の精神誌−」1998年)*29



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【主要引用文献一覧】
珠洲郡編『石川県珠洲郡誌』、石川県珠洲役所、1923年
・江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年
国府村史編纂委員会編『国府村史』、国府村役場、1956年
・諸岡村史編集委員会編『諸岡村史』、諸岡村史発刊委員会、1977年
金沢市史編さん委員会編『金沢市史 資料編14 民俗』、金沢市、2001年

*1:高田衛監修『江戸怪異綺想文芸大系 第5巻 近世民間異聞怪談集成』、国書刊行会、2003年、169頁

*2:高田衛『女と蛇 表徴の江戸文学誌』筑摩書房、1999年、78頁

*3:堤邦彦『女人蛇体 偏愛の江戸怪談史』(角川叢書角川書店、2006年、38頁。堤邦彦「親鸞と蛇体の女 仏教説話から民談への軌跡」(小松和彦編『〈妖怪文化叢書〉妖怪文化研究の最前線』、せりか書房、2009年、179〜213頁)も参照。ちなみに、高田衛監修『江戸怪異綺想文芸大系 第5巻 近背民間異聞怪談集成』(国書刊行会、2003年)収録『三州奇談』における「三ツ鱗の紋」言及箇所は282頁。

*4:今野圓輔『日本怪談集 幽霊篇』(現代教養文庫)、社会思想社、1969年、14〜17頁

*5:十村肝煎(とむらきもいり) 近世、加賀藩・富山藩の行政区画であった十村において民政を司った役職。

*6:今井彰『蝶の民俗学』、築地書館、1978年、93〜106頁。飯島吉晴「虫十話 その弐 蝶 怪異を告げる蝶の群れ」、『怪』vol.0033、KADOKAWA、2011年、52頁

*7:「あたかも」の誤表記?

*8:斎藤月岑著 / 今井金吾校訂『底本武江年表 下』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、2004年、127頁

*9:岡本綺堂『半七捕物帳』の「蝶合戦」については、鄭智恵「「蝶合戦」小考」(共同研究 半七捕物帳(三))(『成蹊人文研究』第21号、成蹊大学、2013年、116〜122頁)に詳しい

*10:池田浩貴「『吾妻鏡』の動物怪異と動乱予兆―黄蝶群飛と鷺怪に与えられた意味付け―」『常民文化』第38号、成城大学、2015年、7〜17頁

*11:今井彰、前掲書、104〜105頁

*12:"チョウ - Wikipedia" https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6

*13:江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年、681頁、686〜687頁

*14:蔦江玉吉編『月津村誌』、月津村交友会、1924年、71〜72頁

*15:園田道閑の義民伝説についてはWikipedia参照。⇒"園田道閑 - Wikipedia - ウィキペディア" https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%92%E7%94%B0%E9%81%93%E9%96%91

*16:小西正泰『虫の文化誌』(朝日選書)、朝日新聞社、1992年、71頁。「九郎兵衛」の伝説については、野添憲治 / 野口達二『日本の伝説14 秋田の伝説』(角川書店、1977年、57〜58頁)等を参照。また、「秋田の昔話・伝説・世間話 口承文芸検索システム」で「九郎兵衛」で検索するといくつか概要を見ることができる。

*17:尚学図書編『故事俗信 ことわざ大辞典』、小学館、1982年、1021頁

*18:小倉學 / 藤島秀隆 / 辺見じゅん『日本の伝説12 加賀・能登の伝説』、角川書店、1976年、99〜100頁。"青柏祭 - Wikipedia" https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9F%8F%E7%A5%AD

*19:清酒時男『日本の民話21 加賀・能登の民話 第一集』、未来社、1959年、285〜287頁

*20:福田晃編、伊藤曙覧 / 藤島秀隆 / 松本孝三著『日本伝説大系 第6巻 北陸編』、みずうみ書房、1987年、246〜251頁。福井・石川両県に伝わる類話10例を挙げる。

*21:小倉學ほか、前掲書、72頁

*22:七尾城の一角の意。

*23:民俗学研究所編著『改訂 綜合日本民俗語彙 第2巻』、平凡社、1985年(第二版)、531頁

*24:宮本常一宮本常一著作集 第36巻 越前石徹白民俗誌・その他』、未来社、1992年、111頁。初出:宮本常一『越前石徹白民俗誌』(全国民俗誌叢書2)、三省堂、1949年

*25:村上健司『妖怪事典』、毎日新聞社、2000年、147頁。水木しげる画 / 村上健司編著『日本妖怪大事典』、角川書店、2006年、130頁。

*26:橘礼吉「第七節 天狗さん」(「第六章 民間信仰」)(金沢市史編さん委員会編『金沢市史 資料編14 民俗』、金沢市、2001年、382〜388頁)によれば、黒壁山九万坊(薬王寺)・桃雲寺・満願寺九万坊・卯辰山九万坊(金峰山寺)・最勝寺・西方寺・西養寺・伝灯寺山九万坊・飢渇山天狗谷九万坊の9ヶ寺。また、九万坊については、山岸共「九万坊権現の考察」(小倉學編『加能民俗研究』第6号、加能民俗の会、1978年)、高井勝己「金沢に伝わる「九万坊大権現」についての一考察」(石川郷土史学会編『石川郷土史学会々誌』第44号、石川郷土史学会、2011年)等を参照。

*27:橘礼吉、前掲書、388頁

*28:本康宏史『軍都の慰霊空間―国民統合と戦死者たち―』、吉川弘文館、2002年、328〜329頁

*29:岩田重則「天狗と戦争―戦時下の精神誌―」、松崎憲三編『近代庶民生活の展開―国の政策と民俗―』、三一書房、1998年、205頁