【覚え書】妖怪系展覧会情報

▼開催中の展覧会

京都市京セラ美術館  村上隆 もののけ 京都 2024.02.03-2024.09.01

泉鏡花記念館  企画展「新聞原紙で読む『山海評判記』」 2024.01.13-2024.05.19 → 2024.02.22.2024.05.19

湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)  開館5周年記念企画展「妖怪大行進 in Japan」 2024.03.07-2024.07.08

・箱根・芦ノ湖 成川美術館  企画展 橋本龍美展~妖怪と、ユーモアと、共感と、信仰と~ 2024.03.14-2024.07.17

・茂木本家美術館  浮世絵・魑魅魍魎の世界 2024.03.27-2024.05.12

・香港アートセンター(香港)  妖怪大行進 Yokai Parade: Supernatural Monsters from Japan(「妖怪大行進:日本の異形のものたち」展) 2024.04.05-2024.05.05

専修大学図書館 本館 Knowledge Base  春の企画展「春にやってきた江戸の妖怪大集合2024-向井信夫文庫を中心に-」 2024.04.15-2024.05.15

▼これからの展覧会

湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)  開館5周年記念特別展 石黒亜矢子(絵)×京極夏彦(文)新作絵本『もののけdiary』出版記念「体験!石黒亜矢子原画展」 2024.04.26-2024.10.15

・はだの歴史博物館  企画展「怪異と妖怪の世界」 2024.06.??-2024.07.??

・山寺芭蕉記念館  企画展「妖怪の美術(仮称)」 2024.06.14-2024.08.29

・札幌芸術の森美術館  水木しげるの妖怪 百鬼夜行展 ~お化けたちはこうして生まれた~ 2024.06.29-2024.08.25

・こおりやま文学の森資料館  郡山市制施行100周年記念 特別企画展「広瀬克也の妖怪ワールド」 2024.07.??-2024.09.??

高知県立文学館  企画展 創刊45周年記念 ムー展~謎と不思議に挑む夏~ 2024.07.06-2024.09.16

遠野市立博物館  特別展「遠野物語と異界」 2024.07.19-2024.09.23

・萩博物館  夏期特別展「海の妖怪展」 2024.07.20-2024.09.23

高浜市やきものの里 かわら美術館・図書館  企画展 絵本作家たかいよしかず展~ようかいむら と 鬼のまち~ 2024.07.27-2024.10.27

太田記念美術館  浮世絵お化け屋敷 2024.08.03-2024.09.29

・水野美術館  特別企画展「怖~いおばけ浮世絵展」 2024.08.03-2024.09.29

・平田本陣記念館   石黒亜矢子展 ばけものぞろぞろ ばけねこぞろぞろ 2025.02.22-2025.06.01

鳥取県立美術館  企画展「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展 〜お化けたちはこうして生まれた〜」 2025.07.19-2025.08.31

▼その他の気になる展覧会

碧南市藤井達吉現代美術館  企画展「顕神の夢 ―幻視の表現者― 村山槐多、関根正二から現代まで」 2024.01.05-2024.02.25

山梨県立博物館  シンボル展 帰ってきた芳年道祖神祭幕絵 2024.01.20-2024.02.19

横須賀美術館  企画展「日本の巨大ロボット群像-巨大ロボットアニメ、そのデザインと映像表現-」 2024.02.10-2024.04.07

国立民族学博物館  みんぱく創設50周年記念特別展「日本の仮面 芸能と祭りの世界」 2024.03.28-2024.06.11

横浜人形の家  企画展「いざなぎ流のかみ・かたち ー祈りを込めたヒトガタたちー」 2024.04.20-2024.07.21

▼会期終了した展覧会

藤田美術館  妖 2023.11.01-2024.01.31

・マレーシア芸術学院シティキャンパス(クアラルンプール)  Yokai Parade:Supernatural Monsters from Japan(「妖怪大行進:日本の異形のものたち」展) 2023.11.10-2023.12.03

京都文化博物館  企画展「異界へのまなざし−妖(あやかし)と魔よけの世界−」 2023.11.25-2024.01.08

・川崎町コミュニティセンター  掘ったバイ2023「筑豊のおばけたち―怪異の民間伝承―」 2023.12.07-2024.01.23

遠野市立博物館  水木しげる生誕100周年記念コーナー展 2023.12.08-2024.01.27

文化学園服飾博物館  魔除け-見えない敵を服でブロック!- 2023.12.09-2024.02.14

里庄町立図書館  岡山の妖怪画展~あやかしの世界へ、ようこそ~ 2023.12.13-2023.12.25

湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)  新春企画展「妖怪の絵馬と千社札」 2023.12.14-2024.03.05

・SusHi Tech Square  第2期展示「都市にひそむミエナイモノ展 Invisibles in the Neo City」 2023.12.15-2024.03.10

・湯前まんが美術館  球磨川流域13市町村 わくわく妖怪ランド 妖怪パネル展 2023.12.16-2023.01.10

・市立五條文化博物館  ミニ展示「陀々堂の鬼はしり」 2024.01.04-2024.02.04

・佐藤美術館  平良志季の「可笑しい異界」展 2024.01.05-2024.02.12

和歌山大学図書館  和歌山大学2023年度後期授業「博物館実習Ⅰ」展示企画 『妖怪に何か用かい?和歌山妖怪大図鑑』 2024.01.11-2024.01.25

・そごう美術館  水木しげる生誕100周年記念 水木しげるの妖怪 百鬼夜行展~お化けたちはこうして生まれた~ 2024.01.20-2024.03.10

白い恋人パーク コレクションハウス  白い妖怪ぱーく展 2024.02.03-2024.02.14

富山県立山博物館]  冬のミニ企画展 美濃国身延村で記された!?越中立山のクダベ 2024.02.06-2024.03.31

岡山県自然保護センター  企画展「岡山妖怪大迷路~岡山の自然が生んだ幻獣たち~」 2024.02.17-2024.04.07

・人と科学の未来館サイピア  企画展「岡山の妖怪ワールドにようこそ」 2024.03.03-2024.04.14

・中野区立歴史民俗資料館  特別公開 天狗像・幽霊像 2024.03.19-2024.04.14

南紀熊野ジオパークセンター 『妖怪に何か用かい? 和歌山妖怪大図鑑』パネル展 2024.03.20-2024.04.07

▼その他の特記展示・イベント

名古屋市博物館  常設展 フリールーム 誰かが家にやってくる 2023.05.24-2023.06.25

・北千住マルイ6階 カレンダリウム  都市伝説展~みんなのオカルト50年史~ 2023.07.15-2023.08.13

サンシャインシティ 文化会館ビル3F 展示ホールC  ゲゲゲの鬼太郎トリビュートアート展 鬼太郎EXPO 2023.08.11-2023.08.27


※ここに挙げている展覧会情報は妖怪をテーマにしているとブログ主が判断したものを時系順に並べています。主に展覧会タイトルに妖怪・怪異・怪談系のワードが入っているか、もしくはある程度まとまって妖怪要素を含むものをピックアップしています。妖怪系とはブログ主の独自の判断基準です。

“只だ化け物が面白い”――伊東忠太「化けもの」(1925年)

建築家の伊東忠太(1867‐1954)が妖怪について書いたまとまった文章に「妖怪研究」があり、青空文庫でも読める*1
で、この「妖怪研究」とは別に、伊東忠太には「化けもの」という随筆があるのだが、こちらは『伊東忠太建築文献』*2に収録されたものが国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている*3
しかし、「化けもの」のほうは「妖怪研究」の知名度と比して、現状、目に触れる機会が少ないように思う。
読んでみると、「化けもの」も読み物としてじゅうぶんに面白く、伊東忠太の建築家としての面だけでなく妖怪フリークっぷりの一面が垣間見える文章となっており、これが読まれていないのは妖怪好きの立場からしてもたいへん惜しい。


というわけで、以下に書き起こしてみた。

なお、表記は適宜、新漢字に直している。


化けもの



一、化け物の世の中


 予は別に化け物学を修めた訳でもなく、またそんな学問があるかどうだか知らないが、何の因果か、性来化け物が大好きで、幼少の時母の膝に抱かれて数々のお伽話を聞かせられた中にも、化け物の出て来る話には一入興がつたものである。近頃予は折に触れて漫画を描く癖がついたが、其の漫画が兎角化け物的なるのも、所謂三つ児の魂百までと云ふのであらう。
 しかしよく考へて見ると、誰でも化け物とは極めて親しみが深い筈である。誰でも幼い時分にはお伽話を聞かされるが、其のうちで化け物の出て来ないのは甚だ稀である。舌切雀では重い葛籠から無数の化け物が飛び出し、カチカチ山では狸が婆さんに化け、茂林寺の文福茶釜は狸に化け、桃太郎では鬼が対照物である。
 稗史小説類を見ると、これが亦た化け物づくめである。大江山の酒顛童子や、戸隠山の鬼女、安達ヶ原の鬼婆などは愚なこと、凄いのでは玉藻前の九尾の狐、鍋島の猫騒動、悲しいのでは三十三間堂の柳の精、信太の森のうらみ葛の葉、おそろしい幽霊では浅間が岳の時鳥、皿屋敷のお菊、四つ谷のお岩に、埴生村の累と、数へ来れば際限がない。講談師が張扇で叩き出す武勇伝には、化物退治がつき物である。
 斯くの如く幼少の時から化け物話で鍛へ上げられた吾人の頭は、容易に化け物から離れられない。化け物に興味を有つのが当り前で、興味を有たぬ人は余程の変り者である。
 尤も妖怪談は時代の進歩に逆比例して少くなるもので、近来はメッキリ減つて来たが、それでも相当に話頭に上つて世間を賑はしてをる。妖怪変化を実際見たと云へば、いやそれは幻覚や錯覚であると云ふ。学理上化け物はあり得ないといえば、イヤそれはまだ学問が幼稚だから解釈し得ないのだといふ。尤も他の意味に於ける化け物は、今の世の中の方がズッと昔より多くなつた。社会の闇黒面を覗いて見ると化け物だらけであるがこれは別問題として、真実の化けものは果してゐるかゐないか一つ吟味して見よう。


二、化け物は居るか居ないか


 予が学生時代に本郷の寄席へよく講談を聞きに行つた。慥か桃川如燕であつたと思ふが、高座に上るや否や咳一咳
「世に化けものはないといふ、あるといふ。しかるに下野の国に女化ヶ原といふがある。これは狐が女に化けたところから女化ヶ原といふ。若しも狐が化けないものならば、何で女化ヶ原といふ名があらうぞ。化け物の有ることはこれでもわかる……」
と大見得を切つたので、さすがに講談師一流の論理法は違つたものだと非常に感心したので今以てよく覚へてゐる。
 故井上円了博士は有名な妖怪学者であつたが、博士は化け物の有無については徹底的に断案を下してをらない。其の名著妖怪学には、幻覚や錯覚や、あはて者が犢鼻褌を幽霊と間違へたといふ程度の実例を列べたに過ぎないが、近頃或る一派の連中は霊魂の実在、即ち幽霊や化け物の存在を真剣に研究してゐる。しかしこれを一笑に附してはイケない。化け物がゐると信じてゐる人に取つては化け物はゐる、ゐないと信念次第でどうにでもなる。例へばどんな醜婦でも飽くまで惚れた目で見れば美人だ。どんな美人でも飽くまで嫌つた目で見れば醜婦だ。昔の人は兎角化け物があると信じたから化け物が沢山出て来た。今の人は兎角化け物はないと信ずるから出なくなつたまでのことである。
 結局は予は化け物がゐてもゐなくても構はない。只だ化け物が面白いのである。若しも化物がゐるならば、予のやうな化物崇拝者の前に現はれてもよささうなものだが幸か不幸か、まだ一度も化け物にお目にかゝつたことのないのは何より残念なことである。


三、化け物の分類


 さて、こゝに大に考ふべきことは、抑々化け物とは何ぞやと云ふ問題である。これを広義に解釈すれば、妖怪変化、悪魔、精霊等、即ち所謂怪異なるものは一括して皆化け物といへるが、これを狭義に解釈すれば、化け物は怪異のうちの一種類である。
 予の考へでは、凡そ怪異には三つの大部門がある。
第一は即ち化け物で、これは或るものが他のものゝ形に化けるので、其の大多数は動物に属する。就中、狐や狸は最もよく化けるといふが、其の他貂、鼬、獺、猅の如き狡猾陰険な動物は大体化けるとしてある。彼等の化ける動機にも色々あるが、多くは悪戯のためと報復のためである。悪戯とは、例へば狸が大入道に化けて旅客を脅すの類で、これは多くは滑稽味を帯びて陽気なものである。報復のためとは、例へば鍋島の化け猫の如きもので、随分凄惨で陰気である。
 第二は即ち霊怪で、これはものに精霊があつて、其の霊が形を現はすのである。これにはまた三つの種類がある。一は即ち幽霊で、死者の霊魂が形を現はすもの、二は即ち生霊で、生者の魂が形を現はすもの、三は即ち精霊で、非情物の精が人の形に現はれるものである。幽霊は現世に執念が残つて冥界から逆戻りして来るもの、生霊は何か深い意趣があつて祟るもので、いづれも恐ろしいものが多い。しかし精霊は多くは美しいものか哀れなものである。各種の花の精などは最も美しいが、巨樹老木の精には哀れなものや凄いものも可なりある。植物以外の自然物にも時々精霊の現はれることがある。雪女などは其の一例である。
 第三は悪魔で、これは化け物でもなく、霊怪でもなく、始めからおそろしい妖怪的な姿を有てる超人間の生物である。印度の悪魔羅刹などには随分獰猛な奴があり、日本の邪鬼にも頗る振つたのがある。風神、雷神などの姿も慥に化物的であり、悪神でなくても、容貌の怪異なものは随分ある。
 此の三大部門の他にはなほ若干の種類もあり、また甲の部門から乙の部門まに転籍するものもあり、更に甲乙両部門の中間に位するものもあるから、実際怪異の種類は非常なもので、これを適当に分類するのは容易なことではない。


四、化け物の分布


 世界の化け物の分布を見ると、千紫万紅とり/゙\に面白いが、試に其の一端を話して見よう。
 まづ支那では、其の歴史の劈頭に於いて化け物が現はれる。伏羲は蛇身人首であり、神農は人身牛首とある。動物では、龍、鳳、麟、辟邪、白澤、夔、饕餮なんどは何れも化け物階級のものであるが、更に山海経などに不思議な奴が現はれる。西遊記の中の化け物に至つては実に言語道断なものがある。さすがに支那な化け物製造に妙を得てゐる。
 目を転じて印度から西亜を見渡すと、化け物世界は更に豊富である。印度のラーマ武勇伝の中には迚も雄大な化け物が出て来る。元来印度の神話や伝説は殆ど総て怪異的であり、第一釈迦がすでに円満微妙な化け物である。三十二相具足といつて、頭のテッペンに肉瘤があつたり、指の間に水搔きがあつたり、全真が金色であつたり、睾丸が馬玉の如くであつたりする。
 印度教の説くところには更に大袈裟な化け物がある。第一シヴァとヴィシスの両神は、其の身を種々雑多な形に変化し、半人半獣や三面六臂や、奇想端倪すべからざるものがある。シヴァの妻のカーリーといふのは、藍黒の顔に三眼が鋭く輝き、血汐滴る舌を吐いた姿は二タ目とは見られぬくらゐなもあのである。迦楼羅といふのは即ち金翅鳥のことであるが、鳥面人身で翼を張れば其の大きさ三百三十六万里、毎日一大龍王と五百の小龍を捕つて喰ふのである。此の話はアラビアン・ナイトに焼き直されて、ロックといふ巨鳥が大蛇を捕つて喰ふことになつてゐるが、日本に焼き直されては烏天狗になつて仕舞つた。
 アラビアン・ナイトには此の他化け物話が沢山あるが、あの地方には昔から怪異談の優秀なのが多い。波斯のルステム武勇伝の中の驢馬の化け物などは最も痛快である。
 西洋の化け物にも可なり珍なのがあるが、其の現はし方がすべて写実的であるから一向面白くない。元来西洋の奴等は理性が勝ち過ぎてゐて空想力に乏しいから、到底東洋のやうな偉大なる、または深刻なる化け物は作り得ないのであらう。希臘では上半が人で下半が馬のケンタラル、人身蛇足のギガントス、獅頭蛇尾で背中から羊の頭が飛び出たキメラ、人身羊脚のサチルス、人身魚尾のヒッポカンプ、翼のある馬のペガサスなんど随分変つたものではあるが、何分モデルを使つて写実一点張りに拵へ上げた形だから、不自然の感があるばかりで、一向化け物味が湧いて来ない。
 日本の化け物は東洋諸国に比べると、想に於いても形に於いても遠く及ばないのは残念である。神話の中にも化け物らしいのはない。日本霊異記や今昔物語、降つて其の後の伝記に随分化け物も出て来るが、偉大なる化け物や高遠なる妖怪は少い。いづれも小規模または浅薄なもので、深味も凄味も足りない感がある。畢竟国土が狭くて自然の現象が平凡なのと、国民が平和で極端な空想を描き得ないためであらう。


五、化け物の芸術的意匠


 化け物は芸術上可なり面白い題材として取扱はれてゐるので、建築に、絵画に、彫刻に、工芸品に古今東西の作例が夥しくある。日本では建築に殆ど化け物を使はないが支那では盛んに使ふ。殊に屋根飾は化け物だらけである。印度には更に多い、殿堂の壁面に無数の化け物が彫刻されてゐるのがある。西洋では巴里のノートル・ダムの怪獣がよく知られてゐるが、あんなものはいふに足らぬ。まだまだ奇抜な例が随分ある。近頃独逸のハイネの作つた悪魔杯は世界稀有の傑作である。
 化け物は主として絵画に描かれるが、日本でも所謂百鬼夜行の図の如きは古来幾通りもある。しかし何れも有りふれた変哲のない、可笑味も凄味もないもので、構想からも筆致からも、余り感服の出来ないものである。
 元来化け物が実在のものでない以上、どんな奇怪な不自然なものでも差支えない筈である。従つて其の意匠は絶対に自由であり、誰にでも勝手に描ける筈であるが、さて実際やつて見ると中々さう無造作ではない。
 予の親友に画伯がある。彼はある時同人数名と化け物会を催し、銘々出来るだけの意匠を絞つて精々新しい変つた化け物を描いて互いに品評し合つたことがある。しかるに其の作品は何れも言ひ合したやうに依然としてありふれた三ツ目入道、一ツ目小僧、摺小木に羽根、行燈に轆轤首と云つた程度のものばかりで、これぞと云ふ眼新しい化け物はなかつたので、一同更に化け物の新案の六ヶ敷いに感心した。画伯は此の話を齎して予に所感を問うたから、予は次のやうに説明したのである。
 凡そ化け物の形には何等拘束がないから、これを現はすことは甚だ自由で容易なやうであるが、それが却つて六ヶ敷い所以である。真人間を標準としてこれを写せばよいので標準があるから描き易い。標準のない物を描くには、其の原動力は画才でなくして、空想力である。縦横無尽の画才があつても、一点空想力を欠くものは化け物を描くことが出来ない。絵画の技工はなくとも空想力が発達してをれば化け物を描くには仔細はない。但し化け物の形に標準はないと云つても、実は何等か実在の或るものから暗示を得なければならぬ。此の暗示を求めることが人間を描く場合よりも遥かに六ヶ敷いのである。
 即ち化け物は決して誰にでも描ける芸当ではない。


――(完)――

(大正十四年七月、週刊朝日*4



伊東忠太「化けもの」 伊東忠太 著 / 伊藤忠太建築文献編纂委員会 編『伊東忠太建築文献 第6巻 論叢・随想・漫筆』 龍吟社 1937年 636〜641頁)

文章の大意はほぼ「妖怪研究」で述べられている内容と同じで、大きく違うところはない。
関心を寄せている範囲も、日本よりも中国、中国よりもインドの妖怪造形を評価している点で一貫している。
注目すべきは、後半の挿話の、親友のとある「画伯」が「同人数名と化け物会を催し」、新意匠の化け物の絵を描いて品評し合ったという話があるのだが、これは「妖怪研究」のほうには見られず、興味深い。
画家たちは各々集まって今までにない妖怪画を描こうとするのだが、蓋を開けてみれば示し合わせたかのように、一つ目小僧や轆轤首などの旧来よくある化け物の絵ばかりであった……という話である。ありふれた化け物のラインナップに、「三ツ目入道、一ツ目小僧」と並んで「摺小木に羽根」がいるのが、現代との違いを思わせるが、何を以て妖怪画、化け物の絵とするか、という論題は時代を越えて一考の価値ありとも思える。


また、この文章の中で伊東忠太はこの化け物の造形はよい、これはよくないと世界中の化け物について、ズバズバと判定を下している。一方、冒頭で自分が「漫画」を描くと何でも化け物っぽくなってしまうと述べたうえで、最後は「化け物は決して誰にでも描ける芸当ではない」という一文で〆るところからは、自らの妖怪趣味に対する強い自負が感じられる。


それにしても、

しかしよく考へて見ると、誰でも化け物とは極めて親しみが深い筈である。

化け物に興味を有つのが当り前で、興味を有たぬ人は余程の変り者である。

予のやうな化物崇拝者の前に現はれてもよささうなものだが幸か不幸か、まだ一度も化け物にお目にかゝつたことのないのは何より残念なことである。


と、言い放つあたり、伊東忠太の妖怪・化け物への相当の入れ込みようが窺える。
特に「まだ一度も化け物にお目にかゝつたことのないのは何より残念なことである」という箇所は、忠太の別の随筆「幽霊」*5で述べられていた、「いかでも我も尾花を幽霊と見得ぬものかはとて、精神を籠めて乱れそよぐ尾花をやゝ暫く見詰めて」*6いたという態度ともそのまま通じるものがあるだろう。
ついつい、常日頃から怪異の現出を渇望していた“化物崇拝者”伊東忠太の姿を想像してしまう。



(追記)
気づいたのだが、青空文庫伊東忠太「妖怪研究」に、「初出:「日本美術」 1917(大正6)年」とあるのだけれども、雑誌『日本美術』は1916年12月の第198号で一度休刊になってるので、これは誤りではなかろうか。 
では何故、青空文庫が初出をこのように書いているかというと、底本としている『木片集』(萬里閣書房、1928年)が出典を「大正六年「日本美術」」としているからというだけの話なのだが*7。こういうの、書誌情報的に難しいところである。

伊東忠太「妖怪研究」は、日本美術院の機関誌『日本美術』第17巻第6号(大正4年5月)「講演会記念号」(日本美術社、1915年)に掲載された講演録が初出と思われる。
ちなみに、雑誌掲載時の原題は「化物研究」であった。

*1: "図書カード:妖怪研究 - 青空文庫" https://www.aozora.gr.jp/cards/001232/card46337.html

*2:伊東忠太建築文献〉(全6巻)、竜吟社刊(1936〜37年)。のちに、原書房より〈伊東忠太著作集〉(1982〜83年)として復刊。

*3: "伊東忠太建築文献 : 6巻. 第6巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション" http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1834719/348

*4:こちらの「週刊朝日」の初出は未確認。

*5: 過去記事参照。→"伊東忠太「幽霊」(「今昔小話」より) - 猫は太陽の夢を見るか" http://d.hatena.ne.jp/morita11/20130112/1357981068

*6: 伊東忠太「幽霊」(「今昔小話 二五」) 伊東忠太 著 / 伊藤忠太建築文献編纂委員会 編『伊東忠太建築文献 第6巻 論叢・随想・漫筆』 龍吟社 1937年 446頁

*7: "木片集 - 国立国会図書館デジタルコレクション" http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1226065/186

円本「世界妖怪全集」のウワサ

以前にTwitterでつぶやいて私的にまとめて、その後新規の情報も見つからず下書きしたまま半ば忘れて放置していた話を、備忘のためのメモとして以下に記事にしてみる。


こちらのサイトに、「高井有一の小説『夢の碑』では、新生美術社(中央美術社)が円本として「日本風俗画集成」全20巻、「世界妖怪全集」全25巻を刊行したことを、「新生美術」が昭和4年6月、163号で休刊しなければならなかった因としている」とある。この記述が気になって少し調べてみたのだが、詳細がよくわからなかった。

上記サイトで言及されている高井有一の小説「夢の碑」を見ると、次のようにある。


 こうして、新生美術学院に続き、彼の二つ目の砦(とりで)は失われた。新生美術社はなお存続し、単行本や叢書(そうしょ)の刊行は絶やさぬ方針を決めたものの、この方も望は尠かった。円本の流行に追随して出した「日本風俗画集成」全二十巻は、一応の成績を収めたが、それに次ぐ「世界妖怪(ようかい)全集」全二十五巻の予約募集は思うに任せなかった。妖怪変化に関する東西の絵画や文献を網羅する企画で、第一線の画家たちに古画の模写をさせるのを売り物にしたのだったが、際物めいた印象を与えるのが不振の原因となった。「新生美術はお化けに取り殺される」という冷笑を含んだ冗談が業界で交わされていた。画壇の人たちの多くは、青汀の活動はこれで終りだと考えたに違いない。


高井有一「夢の碑」1976年)*1

高井有一「夢の碑」は昭和51年(1976)8月に新潮社より刊行された小説である。翌昭和52年には芸術選奨文部大臣賞を受賞している。『新潮現代文学 第74巻』の解説では、高井有一の祖父・田口掬汀をモデルとした「河西青汀」の「不遇といっていい一生」と、その孫「河西堯彦」の「現代の寄る辺ない愛に生きる日常とをみごとに描き分けて、出色の出来ばえを示している」と評価している*2

上記引用中の「新生美術学院」「新生美術社」はそれぞれ実在した「日本美術学院」「中央美術社」をもじったものと思われる。
また、“「日本風俗画集成」全二十巻”というのは、『日本風俗画大成』全10巻が刊行された事実に基づくものだろう。

『日本風俗画大成』の刊行巻数からも分かるように、小説中では実際にあった物事をモデルにはしているものの名前や巻数等少しずつ改変して書かれている。中央美術社からは『妖怪画談全集』全4冊が刊行されているし、“「世界妖怪全集」全二十五巻”というのも、そういった事実の誇張のひとつと考えれば、そう問題はないように思われた。


それだけならこれで終わる話だった。
……のだがしかし。たまたまインターネットで検索をかけていて行き当たったのだが、秋田県広報協会発行の雑誌『あきた』に、次のような記述がある。


 大正末年から昭和の初頭にかけて、不況の嵐がおしよせ、それは出版界にも遠慮なく吹き込んだ。
〔・・・中略・・・・〕
 そこで、この窮状を切り抜けるため、円本を企画「妖怪全集」の刊行に踏み切った。しかし、この時すでに円本ブームも下火になっていた。昭和五年のことである。「妖怪全集」という名前からは講談本のように受取られ、内容は良心的なものだったにもかかわらず、一般には好奇心をかきたてただけで、売れ行きはさっぱりのびず、予定の半分も発行しない八巻を刊行して挫折した。残った莫大な借財を背負い、中央美術社は解散を余儀なくされた。


(富木隆蔵「人・その思想と生涯(8)田ロ掬汀」、『あきた』第5巻第5号(通巻48号)、秋田県広報協会、1966年5月1日、37頁)*3

上記引用記事では、「妖怪全集」が「予定の半分も発行しない八巻を刊行し」たと書かれている。これは何を指して言っているのか。

繰り返しになるが、中央美術社から『妖怪画談全集』全4冊が刊行されていることはよく知られている。
『怪』vol.0027(2009年)掲載の東雅夫「『妖怪画談全集』に幻の六冊が――?」によれば、『妖怪画談全集』は「日本篇・上」「日本篇・下」「支那篇」「ロシヤ・ドイツ篇」のほかに、「印度篇」「イギリス篇」「アメリカ篇」「フランス篇」「比較妖怪学」「世界妖怪史」の刊行が予定されていたことが刊行告知のチラシから明らかであるという。未刊を合わせれば全10巻の構想であったということになる*4

高井有一「夢の碑」では“「世界妖怪全集」全二十五巻”、『あきた』では“予定の半分も発行しない八巻を刊行して挫折”、当時の刊行告知チラシでは全10巻になる事が予告されている。
ここまで情報がバラバラだと、もしかして現在知られている『妖怪画談全集』以外にも刊行されたものがあったのか、そうでなくともそれに近い「何か」があったのではないか…? とついつい想像してしまう。

管見の限りでは、現在、円本の「妖怪全集」なるものは出回っていない(...ハズ)。
また中央美術社の雑誌『中央美術』本誌にもそのような広告は掲載されておらず、田口掬汀や藤澤衛彦が同企画に言及した記録も今のところ確認できていない。
「夢の碑」や『あきた』の記述が多少なりとも事実に則った記述であるならば(『妖怪画談全集』と「妖怪全集」とがそれぞれ別物なのかそれとも同じものを指すのか、文中の予定刊行数と実刊行数は正しい数字なのか等々気になる点はあるものの)、まだ見ぬ昭和の妖怪本あるいはそれに準ずる原稿や資料がどこかに存在することになる。

……しかしながら、如何せんこれだけの情報では確証がないため「ウワサ」の域を出ない。続報が待たれる(他力)。

*1:底本:『新潮現代文学 第74巻 高井有一 夢の碑、真実の学校』新潮社、1981年、72頁

*2:高橋昌男「解説」、『新潮現代文学 第74巻 高井有一 夢の碑、真実の学校』新潮社、1981年、371頁

*3: http://common3.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/048/048_034.html

*4:東雅夫「『妖怪画談全集』に幻の六冊が――?」『怪』vol.0027、角川書店、2009年7月、270〜275頁。また、同氏のブログにも同様の報告がされている。⇒"『妖怪画談全集』の幻 : 東雅夫の幻妖ブックブログ" http://blog.livedoor.jp/genyoblog-higashi/archives/6221159.html

【妖怪メモ】石川県の郷土誌に見られる妖怪まとめ(3)

 前回の続き(たぶん今回で最終回)。
 今回はとくにざっと調べただけではよくわからなかったもの、説明のつけ難かったものを中心に並べているので解説は本当に思いつきのメモ程度。
  前々回⇒"【妖怪メモ】石川県の郷土誌に見られる妖怪まとめ(1)"
  前回⇒"【妖怪メモ】石川県の郷土誌に見られる妖怪まとめ(2)"

※地域欄の自治体名は2015年現在の表記と区分を採用しているが個人で確認できた範囲なので正確性について疑問符の付くものもあるかもしれない。
※掲載順は引用文献の発行年、ついで頁順による。
※引用文中の原文にある旧字体は適宜新字体にあらためたが、かなづかい等はそのままとした。
※引用文中には今日の人権意識に照らして不適切と思われる語句や表現が含まれているが、当時の時代背景や資料的価値を鑑みそのままとした。
※各項目の「地域」の表示は、あくまでそれぞれの話の舞台となっている地域を指し、必ずしもそれらの採集地を保証するものではない。


凡例:■妖怪名 | よみ | 伝承地域

■六部の鏡 | ろくぶのかがみ |  地域:石川県小松市田野町

 正徳元年、美作国川北郡桑村の人彦三郎なるもの、六部となりて諸国巡礼中、偶本村字二ツ梨に至りしに、俄に病を起し苦悶せりしを南部某の為に発見せらる。彦三郎は大人なるにも拘らず乳を飲みたしと請ひしかば、某は之を村人に告げしに、西村家の老母憐みて哺乳せしに、彦三郎大に喜び、其の謝礼として一個の円形柄付鏡を贈りて死せり。これより後西村家に在りては、長子たるもの此の鏡を見るときは、必ず精神に異常を来すの恐ありといへども、之を有する間は財産の衰ふることなしと伝ふ。六部の墓は本村より那谷村に至る道路の傍らにあり。
(江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年、722〜723頁)

 小松和彦『異人論』に則るならば、この「六部の鏡」の話は、これとは別に伝承されていたであろう「異人殺し」の話が公的刊行物に収録される時点で、あるいは後代のひとびとの読み換えによって「異人歓待」の物語として「変形」された話であると推測することができる*1。だとすれば、“六部が謝礼に鏡を残して病死した”という部分は“村を訪れた異人が財産を強奪されて殺された”という話の、また「長子たるもの此の鏡を見るときは、必ず精神に異常を来すの恐あり」という部分は“殺された異人の呪いによって富家の子孫に障害者が出る”という話のそれぞれ変形であると見ることができるだろうか。
 「異人殺し」の話型から考えると、乳を請う六部とそれに応じて哺乳する老婆という要素はいささか唐突な印象を受ける。「変形」される前の原話にはそれなりの文脈があったのかもしれないと想像することも可能だが、よくわからない。



■ちっきんかぶり | ちっきんかぶり |  地域:石川県能登島郴目〜八ヶ崎付近

 往昔郴目八ヶ崎(東島)の間を流るゝどうの川といふ小川あり、其の川にちつきんかぶりといふ怪物すみ村民を害すること甚しかりしが与助、惣左衛門の二人小屋の谷といふ所に住みしが、村民のため百方苦心の末其の怪物を斬り殺せしといふ。二人は小屋ものなりしが其の功を賞し村民と居を同ふするを許せしといふ。其の怪物を埋めたる所をどんだといひ松を植えて記念とす。「与助、惣左衛門の抜いた刀鞘は竹でも身は本物や」の俚謡は二人の勇を称せるなり。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、949頁)

 怪物退治英雄譚のひとつ。また、被差別民であるところの「小屋もの(小屋者)」が村へ居住を受け入れられるストーリーを含む。柳田国男「狼と鍛冶屋の姥」(『桃太郎の誕生』)に「ちっきんかぶり」に関する言及があるが、そこでは『石川県鹿島郡誌』の記述に触れて、「(...)またチッキンというのはどんなであったかわからぬが、/与助惣佐衛門の抜いた刀/鞘は竹でも身は本ものや/という俚謡が伝わっているから、これだけは別にもう一本の刀を隠しておいて切ったというような話があったのかと思う」*2と述べ、刀を捨てたふりをして怪物を欺きもう一本の本物の刀を出して斬り殺したという話型がもともとの話だろうと推測がされている。



■小祠の怪物 | しょうしのかいぶつ |  地域:石川県七尾市白鳥町〜同百海町付近

 白鳥(北大呑)と百海との間に海岸に沿ひてたぶの木に蔽はれし一小祠あり。何時ともなく此の地に一種の怪物現はれて人を悩ませしが、庄屋重造所用の事ありて庵へ赴きしが其の帰途夕方此の地を過ぎしに怪物あらはれたるが重造の佩刀独り鞘を脱け出でて怪物を切付く、重造家に帰りてこれを検むれば鮮血淋漓として刀を染めたりといふ。此の怪物は時々海に入り鯨となりて人を誑かせしと。今は廃れたるが毎年六月二十日山崎の大畠家より此の小祠に至り怪物の害を防ぐ為め弓を射るの神事ありき。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、949〜950頁)

 不詳。怪物退治の英雄譚のひとつ。刀がひとりでに脱け出して怪物を斬りつけたという一種の報恩譚でもある。正体不明の怪物・化け物が何かに化ける話は数多いが、鯨に化ける話は比較的めずらしい部類かもしれない。



■どす神 | どすがみ |  地域:石川県鹿島郡中能登町能登部上ロ70

 上(能登郡)能登部神社の苗裔祭(ばつこまつり)は子の刻に始り丑の刻に終る、神官供奉の人々上の宮より西馬場*3に至り神礼を取出し澤井一楽後向に背負ひ上の宮に帰り奥殿におさめ奉るが、後向に背負ふは癩病神(どすがみ)なるが故にて途中人に遭ふを忌む、もし人に遭はば喰殺せとの神託ありて途中誤つて出御の列に遇ひ神礼を眼にせんか其の人立ち所に癩病になるといふ。祭事は十一月十九日なるが神無月は神々の縁結のため何れも出雲へ出でますに、此の神は癩病神なれば出雲へも参られず他の神々の留守の間にとて祭事を行ふものなりといひ伝ふ。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、968頁)

 「どす」はハンセン病を指す方言だが蔑称に当たるため現在は使われない。本文中の「ばっこまつり」は現在も続く能登部神社の例祭「苗裔祭」の通称である。「ばっこ」とは、大己貴神(おおむなちのかみ)が能登の地に巡礼したときに、地元の神であるノトヒコとノトヒメに「わが初子(はつこ)となす(=自らの身内に加える)」と言ったという社伝に由来するという(『石川県大百科事典』2004年)*4。『能登部町誌』(1936年)によれば苗裔祭は毎年11月17日〜21日の5日間にわたって所役6氏が集まって執り行い、19日の祭事(奉還式)については「当夜子の刻所役(前記の外一楽氏を加ふ)一同神職宅に参集沐浴終りて子の刻食膳に向ふ、料理等凡て古式に因る、食事の最後に飯湯並に握飯を盛る、一汁二菜、飯は菜飯とし神酒は濁酒となす。終りて修祓し、澤井一楽氏神籬を捧持して隣区西馬場愛宕神社へ参り、神籬を勧請し当社へ還御し奉りて直会あり。此の夜出御より当社著御に至る供奉者無言たり、道筋は専ら静粛を旨とし、屋内と雖も言語を禁じ往来人あるも畏敬して逢はざるを例とす、苗裔祭俗にかきばつこ祭といひ夜この行列に遭へば祟りを蒙ると云ひ、時雨の夜遥に響く神楽太鼓の音にも忌慎しみしものなり」と記す*5。『石川県民俗資料緊急調査報告書』(1975年)の該当項には「氏神能登部神社の祭礼のうち19日夜の神迎えの神事は、旧十村と旧高持百姓のうち7軒の家筋のもののみによつて、行われた。村人はこの祭礼をバツコ祭り或いは、ドスバツコと呼んでおる」*6とある。いずれも「どす神」そのものや疫病神信仰に関する言及はない。ネット上で検索すると観光サイトや実際に祭りに行ってきた人のブログ記事等がヒットするが、苗裔祭が「男神である能登比古神が年に一度、西馬場入合の愛宕神社の女神と逢瀬を交わす」*7という子孫繁栄を願う神事であり、道中無言であるという以上の情報はあまり詳しくは出てこない。上記引用文献の中に男女神の逢瀬についての記述が見られないことも気になるがよくわからない。



■やいこん婆 | やいこんばばあ |  地域:石川県小松市鵜川町

 鵜川御坊屋敷の川下に清流岩に砕け、小さな滝となり滝壺が淵をなし幾百年を経た欅の老樹が淵の上を被つている所がある。昔からこの欅を伐ろうとすると切り口から血が流れるといわれ、夜遅くなるとその川に白髪の婆さんが茶釜を洗うと村人から怖わがられている。昔は盆の十三日の夕、聖霊迎えに子供が家々から藁を集めて、この樹の下で迎火を焚く習わしであつたが、大きな火を焚いても木の葉が焦げなかつたといつている。この迎火の行事も大正年間に廃れてしまつた。
国府村史編纂委員会編『国府村史』、国府村役場、1956年、556頁)

 『石川県能美郡誌』(1923年)には「悪疫の流行する時、老人夫婦の人形を造りて、之を荷車に載せ、太鼓等にて囃立て、部落を一周したる後、付近に至りて之を流すことあり、之をヤイコノババと称す、旧時は屢々行はれしが、近時其風を断ちたるを以て、稍々迷信の勢力を失ひし如くなりしも、大正七年十一月悪性流行感冒の際、白江村白江区民が復たこのヤイコノババと行ひしを見れば、旧習の容易に脱し難きを知るべきなり」*8とあり、また『改訂 綜合日本民俗語彙』(1985年)にも「ヤイコノババ」の項目があり「石川県能美郡で、疫病神送りにつくる老人夫婦の人形をこう呼ぶ。荷車に載せ太鼓などで囃して部落を一周し川に流す。金野村のヤイコンババは、船に載せて担き廻るという。ヤイコとは半日休業のことというが、半日休んでババを送る意か」*9とある。柳田国男は「神送りの人形を二つ作っている例」を挙げた文章の中で、「加賀の能美郡で疫病神送り、またガイケの神送りと称して、荷車に乗せて部落中を牽きまわり、終りに川へ流す人形なども、その名を、/ヤイコノババ というが、その実は老人夫婦の人形でもある。村によっては今でも舟に乗せて担ぎまわるというが(郡誌)、こちらが多分前の型であろう」*10と述べ、三河の南北設楽郡(現愛知県新城市及び北設楽郡)で毎年2月8日に行われる「オカタニンギョウ」がこれに近いものであるとする*11柳田国男「神送りと人形」1934年)。おそらく『国府村史』の「やいこん婆」より『石川県能美郡誌』等の「ヤイコノババ」のほうが原義だろうと推測されるが、であるならばなぜ「疫病神送りにつくる老人夫婦の人形」が「夜遅くなるとその川に白髪の婆さんが茶釜を洗うと村人から怖わがられている」という怪談めいた話に変わっているのかといえば、これもやはりよくわからない。



■むくろじ坂の老人 | むくろじざかのろうじん |  地域:石川県能美市仏大寺町

 仏大寺の無患子坂(トンネルの東口)に夜遅くなると白髪の老人が畚を下に、路傍に腰をおろして無言で休んでいるという伝えがある。
国府村史編纂委員会編『国府村史』、国府村役場、1956年、556頁)

 不詳。畚(もっこ)に座っているというので山林の土木作業従事者に関連する話だろうか?



■死人道 | しびとみち |  地域:石川県白山市白山町

 白山比咩神社の門前である神主町(特にかたがり地蔵前の石橋)を死人が通ると天候が荒れるといわれていた。一ノ宮より南の村の人が病院などで死亡した場合、現在の一ノ宮駅から八幡へ登って三ノ宮を通り白山へ下りた。この道をシビト道と言ったのである。急に天候の荒れる日があると、神主町では死人が通ったのではないか、とうわさになったほどである。そのため、一ノ宮より南の村の人が病院などで死亡すると、神主町を通さないようにするため、夜を徹して見張りをすることもあったという。戦後この風習はなくなったが、それでも戦後しばらくの間は、死人が通る時はかたがり地蔵前の石橋に塩をまいて浄めて渡ったと言われている。
(一ノ宮郷土誌編集委員会『加賀 一ノ宮郷土誌』、一ノ宮公民館、1983年、478〜479頁)

 白山比咩神社参道あたりという、かなり具体的に場所の範囲が特定できる話。「シビト」は白山麓地域における死骸、死体の呼び方である。白山信仰に関わる話であろうと思われるが、不詳。



■とっとろの岩、とっとろの鳥 | とっとろのいわ、とっとろのとり |  地域:石川県白山市白山町

 とっとろの岩の下には漆や黄金などの宝物が埋められている、と言い伝えられている。とっとろの岩のありかは八幡と小原の境あたりと言われているが、それを知る人はいない。一説には朝から夕方まで太陽が一番長く当る場所と言われている。また、ある人は、とっとろの鳥の鳴き声を聞いた者だけがそのありかを知ることができる、と伝え聞いている。しかし、とっとろの鳥がどんな鳥かを知る人はいない。
(一ノ宮郷土誌編集委員会『加賀 一ノ宮郷土誌』、一ノ宮公民館、1983年、577頁)

 不詳。鳥の鳴き声もしくは黄金の在り処に関する俗信の一つか。あまり関連性はないかもしれないが、『石川県民俗資料緊急報告書 白山麓』(1973年)は鴇ケ谷(とがたに)(現石川県白山市鴇ケ谷)の伝説として「ムラの周囲一帯およびオイバヤシ(負林)あたりで夕方になると「トーキト」と鳴く鳥がいる。現在でも鳴くが、その正体を見たことがない。このような鳥の鳴き声に因んで鴇ケ谷という名が付されたという。「トーキト」と鳴く鳥は出作り山では未だ聞いたことがないという人が体験を語っている程である」*12という地名由来譚を載せる。



■長谷の白蛇主 | はせのはくじゃぬし |  地域:石川県白山市月橋町

 下月橋に今は死去されたが、大滝の七という人が、月橋光徳寺に昭和二十年三月下旬に来て「お経を上げてほしいから来てくれ」といわれたので住職が行くと「山行きの装束に変えて来てくれ」とのことで再び山行の装束に変えて行くと、月橋と小柳との中間に長谷谷川があり川添いに細い道を登り、道すがら懺悔して話されるに「一年前の今日この谷奥にて薪を伐っていると、一匹の白蛇を見つけて頭をつぶした時、赤い血をたらりと出して死んでしまった。その日から発熱し病名不明の入院をして血を吐くまでになった。その時になり以前の白蛇の血を思い出し全身に寒気がして、これは白蛇のたたりと思い、初めて念仏が出て白蛇に詫びるために今日住職に来てもらって供養してもらったのだ」と、よろこびよろこび帰られた。その後、元気になって念仏者になられたと聞く。二、三日後小柳村の炭焼さんの話によるとその晩炭釜の廻りに音楽でざわめいて、寝ることができず翌朝谷川に下りて見ると、谷川のほとりにローソクや仏花、線香のあるのに驚き逃げ帰り、不思議なこともあるものと話された。後日僧侶による供養のてんまつを聞き、昔から長谷の白蛇主といわれていた大蛇がこれであったのだろうと噂された。その後だれも白蛇を見た人もいなかったという。
(蔵山郷土誌編纂委員会編『蔵山郷土誌』、蔵山公民館、1983年、768頁)

 不詳。主の蛇に関する話は数多くあるため類例を挙げることは避けるが、戦時下に起こったとされる出来事として興味深い事例。



■ヨウダツ | ようだつ |  地域:石川県能美市辰口町岩本

 天狗岩の近くに往生寺という所があって、小さい頃よく友だちと蛍をとりに行ったものや。ある晩、いつものように蛍をつかまえに行ったら、谷川の所に誰かしゃがんでいた。「おい、だれや」と声をかけたら、ブルブルというて、その人の身体が大きくなった。びっくりして後ずさりしたら、またブルブルというて大きくなった。やっとの思いで家へ逃げ帰って、家の人に話をしたら、「あーそりゃ、わらにゅうみたいな大きさになったやろ、ヨウダツというバケモンや。よう出るがや」と話してくれた。
辰口町史編纂委員会編『辰口町史 第1巻 自然/民俗/言語編』、石川県能美郡辰口役場、1983年、592〜593頁)

 不詳。「わらにゅう」というのは“わらにょう”(=藁堆。刈り取った稲を乾燥させるために積み重ねたもの)の派生方言か*13。「わらにょう」で画像検索してもらうとわかるが、実際にこれが川岸にいたらけっこう怖いだろうなというサイズであることが想像される。



■消えたイヨモン | きえたいよもん |  地域:石川県能美市辰口町和佐谷

 うら(わたし)の男親が若い頃、遊んどって家へ帰る時、辻さんの前の橋の所に、大きな笠をはめたでかい(大きい)男が向うをむいてずぼっと立っとるのを見たそうや。てっきり(きっと)イヨモン(和佐田の男)がわしをだますがやと思うて、「イヨモン、イヨモン、わしをだますなや」というて、イヨモンを背中から抱えようとしたら、ピシャピシャと消えてしもうた。
辰口町史編纂委員会編『辰口町史 第1巻 自然/民俗/言語編』、石川県能美郡辰口役場、1983年、593頁)

 不詳。「イヨモン」が化け物を指す語なのかどうかも上記引用文では、はっきりしていない。しかし話の内容よりも「ずぼっと立っとる」とか「ピシャピシャと消えて」とか擬音が独特なのが気になってしまった。




【主要引用文献一覧】
・江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年
国府村史編纂委員会編『国府村史』、国府村役場、1956年
・一ノ宮郷土誌編集委員会『加賀 一ノ宮郷土誌』、一ノ宮公民館、1983年
・蔵山郷土誌編纂委員会編『蔵山郷土誌』、蔵山公民館、1983年
辰口町史編纂委員会編『辰口町史 第1巻 自然/民俗/言語編』、石川県能美郡辰口役場、1983年

*1:小松和彦「異人殺しのフォークロア その構造と変容」『異人論――民俗社会の心性』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年、11〜92頁

*2:柳田国男『桃太郎の誕生』(角川ソフィア文庫)、角川学芸出版、2013年[新版]、341頁

*3:石川県鹿島郡中能登町西馬場

*4:北國新聞出版局編『書府太郎 石川県大百科事典【改訂版】 上巻』、北國新聞社、2004年、782頁。同書の「能登部神社」の項目(685頁)も参照。

*5:清水一布編『能登部町誌』、能登部神社々務所、1936年、34〜35頁

*6:石川県教育委員会編『石川県民俗資料緊急報告書』、石川県教育委員会、1975年、66頁(大島時雄 / 杉崎憲三 / 宮本袈裟雄 / 今村充夫編『日本民俗調査報告書集成 中部・北陸の民俗 石川県編』、三一書房、1996年、76頁)

*7:"ばっこ祭り" http://noto-satoyamasatoumi.jp/detail.php?tp_no=180

*8:石川県能美郡役所編『石川県能美郡誌』、石川県能美郡役所、1923年、323頁

*9:民俗学研究所編著『改訂 綜合日本民俗語彙 第4巻』、平凡社、1985年(第二版)、1610頁

*10:柳田国男柳田國男全集 16』(ちくま文庫)、筑摩書房、1990年、645頁

*11:柳田国男、前掲書、647頁

*12:石川県郷土資料館編『民俗資料緊急報告書 白山麓』、石川県郷土資料館、1973年、188頁(大島時雄 / 杉崎憲三 / 宮本袈裟雄 / 今村充夫編『日本民俗調査報告書集成 中部・北陸の民俗 石川県編』、三一書房、1996年、390頁)

*13:尚学図書編『日本方言大辞典 下』、小学館、1989年、2585頁

【妖怪メモ】石川県の郷土誌に見られる妖怪まとめ(2)

 前回の続き。
  前回⇒"【妖怪メモ】石川県の郷土誌に見られる妖怪まとめ(1)"

※地域欄の自治体名は2015年現在の表記と区分を採用しているが個人で確認できた範囲なので正確性について疑問符の付くものもあるかもしれない。
※掲載順は引用文献の発行年、ついで頁順による。
※引用文中の原文にある旧字体は適宜新字体にあらためたが、かなづかい等はそのままとした。
※引用文中には今日の人権意識に照らして不適切と思われる語句や表現が含まれているが、当時の時代背景や資料的価値を鑑みそのままとした。
※各項目の「地域」の表示は、あくまでそれぞれの話の舞台となっている地域を指し、必ずしもそれらの採集地を保証するものではない。


凡例:■妖怪名 | よみ | 伝承地域

■千両女郎 | せんりょうじょろう |  地域:石川県珠洲市仁江町

 往昔谷内に千両女郎と仇名せられたる美人ありしが、腋下に二三の魚鱗あるを認めたるものあり、後ち其の行く所を知らずといふ、
珠洲郡編『石川県珠洲郡誌』、石川県珠洲役所、1923年、799頁)

 短い一節ではあるが、“脇の下に2,3枚の鱗がある女性”という特徴的なキーワードを含む話。さらにはこれが近代以前の北陸地方に伝えられていた話である(と公的な郷土誌に記録されている)ことに注目したい。堀麦水『三州奇談』巻二「淫女渡水」には「女の死骸は引上げけるに、其脇の下に鱗のごときもの三枚づゝ有けるを、其骸見し人の物がたり也」という描写がある*1高田衛『女と蛇 表徴の江戸文学誌』(1999年)では『三州奇談』のこの記述に関して「「鱗の如き物三枚」というのは、いうまでもなく竜蛇のシンボリズムにまつわる(文化人類学でいうところの)聖痕(スティグマ)であって、この聖痕によって女の魔性が暗示されるわけである。悲恋伝説の女の側を、なかば妖怪化してゆくところに、世間話を媒介とした〔※引用者註:『三州奇談』「淫女渡水」の〕第二話の性格がみられる」*2と述べている。この見解に対して、堤邦彦『女人蛇体 偏愛の江戸怪談史』(2006年)では同じく『三州奇談』巻五「北条旧地」について「蛇形の神女の伝承をともなう北条氏の三鱗形系図を富山で手に入れた北条早雲の故事を紹介したあとに、「北条旧地」は頭に三鱗のある魚の俗信に言いおよぶ。もし妊み女がこれを食べて出産すると、男児なら英雄、女児なら淫婦になるといった口碑から、この当時の北陸地方に鱗を淫婦のスティグマとみる習俗的な心意伝承が根茎をはりめぐらしていたことを想察しうるだろう」*3と述べている。
 「千両女郎」も北陸地方におけるこのような背景のもとに伝えられた事例かあるいは『三州奇談』から派生した話だろうか(「千両女郎」の話が語られ出したのが先か『三州奇談』の成立が先かは、まあ、はっきりとはわからないわけだが)。



■頭無堤 | あたまなしつつみ |  地域:石川県小松市田野町

 今を去る二百七八十年前に開鑿せしものにて貯水池として用ひらる。盂蘭盆当日の正午人影を水面に映ぜしめて、頭を見る能はざる時は、翌年の盂蘭盆までに必ず死ぬといふ。
(江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年、722頁)

 読みは推測による。引用文中にある矢田野町の貯水池というのは下記「荒川の蝶」にもある矢田野用水のことか。
 水面に姿が映らないと死ぬという話は、怪異・妖怪伝承データベースに登録されている事例だと、たとえば奈良県五條市・常覚寺の姿見の井、和歌山県有田郡・法仙寺の弘法大師の手洗いの井戸、『宮城県史』(1956年)収録の月影などが確認できる。
  ⇒"姿見井 | スガタミノイ | 怪異・妖怪伝承データベース"
  ⇒"七不思議 | ナナフシギ | 怪異・妖怪伝承データベース"
  ⇒"(死の予兆),月影 | (シノヨチョウ),ツキカゲ | 怪異・妖怪伝承データベース"
 他にもたとえば、今野圓輔『日本怪談集 幽霊篇』(1969年)などを読むと、影が薄くなったり、影に首だけがなかったり、影自体がなくなったりするのを死の予兆とする俗信は喜界島(鹿児島県)をはじめとして全国にある*4
 また、鏡に顔が映らなければ死ぬという話は現代の学校の怪談や都市伝説などでもしばしば語られるものであるようだ。



■荒川の蝶 | あらかわのちょう |  地域:石川県小松市那谷町

 本川字那谷より県道を辿りて分校村に至る間、丘陵起伏するところに矢田野用水開鑿せられ、其の小手が谷の麓一円を荒川と呼ぶ。毎年二百十日の前後一週間に亘りて、日出前数千の蛾出でゝ盛に争闘し、堕ちて流るゝもの多く、用水路為に白色を呈するに至ることあり。これ延宝七年の頃、月津村の十村肝煎*5西彦四郎が、用水開鑿に関して、藩主の忌む所となり、所罰せられたる亡霊の現るゝものなりといはる。
(江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年、756頁)

 用水路を埋め尽くす数千の白い蝶(蛾)の群れを怪異と見なす話。このような蝶の群舞はしばしば見られる現象で蝶合戦や蝶雨と呼ばれる。今井彰や飯島吉晴によれば、古来より突然の蝶の大量発生は人々を不安にさせ異変の予兆とされたという*6。万延元年(1860)6月には江戸市中でも蝶合戦が見られたと言い、『武江年表』には「同晦日、本所竪川通に数万の白蝶群り来り、水面に浮び、或は舞ふ。あたりも*7雪の如し。その内五ツ目の辺、尤も甚しかりしとぞ」*8とある。万延元年のこの記録はしばしば時代小説の題材となり、岡本綺堂『半七捕物帳』、横溝正史人形佐七捕物帳』にそれぞれ「蝶合戦」という題の短編がある*9。池田浩貴「『吾妻鏡』の動物怪異と動乱予兆―黄蝶群飛と鷺怪に与えられた意味付け―」(2015年)によれば、大量の蝶が発生し飛び回ったという記録が『吾妻鏡』には5件、藤原定家『明月記』には2件あり、どれも何かの予兆と捉えられていたという*10。ちなみに、今井彰『蝶の民俗学』(1978年)では蝶雨の正体について「(...)「蝶雨」の蝶は本物の蝶とは限らず、(...)カゲロウ、ユスリカ、ウスバツバメガ、トビケラといった群である場合が多かったのではないかということがいえよう」*11という推測が立てられている。また、蝶と死んだ人間の魂を結びつける話については、数多くあるようだがとりあえずWikipediaの「チョウ」のページにもいくつか紹介されている*12
 引用文中にある西彦四郎(生没年不詳)と彼にまつわる逸話については『石川県江沼郡誌』にも記述があるが*13、『月津村誌』(1924年)により詳しい。少し長くなるが引用すると、「当家は月津村の十村にして、彦四郎は時代に傑出せる人物なりき、延宝七年十一月、大聖寺藩の老臣、神谷内膳、矢田野(天明六年迄は稲手外八ヶ村)村を巡視し広橋五太夫をして縄張を為さしめ、同八年二月下旬開墾の工を起し、小手ヶ谷水道堀割の工亦成り、同年八月二十三日終りを告げ新田一万石を得たり、此の工事の計画成るや、十村西彦四郎は新田開墾の不利なるを論じて大いに之に反対し、時の大聖寺藩主に奏上せり、藩主怒りて彦四郎及其家族を捕へて、業の濱(現今月津村字月津南端入口小橋の東方畑地)に於て刑す、彦四郎刑せらるゝの時に、臨みて曰く『魂魄此の世に残りて報いんと』死後果して種々の現象表はれたり、一は毎年八月二十三日には、朝早く小手谷(那谷地内)に特種の蝶表はれ、互に闘ひ相共に討死し、用水に落つと云ふ、一は彦四郎を埋没したる当村の墓場、(現今俗称澤山青年団所有桑園)に奇瑞はしたり、此墓及其附近の石を弄ぶ者は必ず虐に罹れり、村人は大いに恐れ、是れ彦四郎の祟りなりと、賽銭十二文及洗米石等を、此墓に捧げて参詣せしに、直に虐癒りたり、されば其後虐に罹りたる者は続々参詣する有様となり、奇妙に参詣者は全部平癒せり仍て村人相語ひて、明治八年其墓場に御宮を造営し澤山社と称して祭りたり、明治四十一年神社合併によりて、現在の白山神社境内に移転し、境内末社となれり、又当家の屋敷跡は俗に位負をなして、其屋敷内に住む家には何かの災難ありと伝ふ」*14とある。前項「頭無堤」も彦四郎の死後現れたという「種々の現象」と見なされていたもののひとつだろうか。




■日一期 | ひいちご |  地域:石川県鹿島郡中能登町久江

 久江付近は蛍多き土地にして、蛍合戦といひ数団の蛍火八谷口よりあらはれしものなりが蛍を道閑の亡魂なりといふ。
 五月の半ば頃里の流れに目口も明かぬ程数知れず飛交ふフタヲカゲロフを俗に日一期と称し蛍と同じく道閑の亡魂なりとす。カゲロフは近年著しく其数を減ぜしが、蛍も年々減少し蛍合戦の奇観の如きは今は全く昔話に過ぎざることゝなれり。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、950〜951頁)

 江戸時代初期、加賀藩の検地政策に反対し張りつけにされて死んだ十村頭・園田道閑(1626〜1668)の義民伝説*15に関連する話。このような藩の政策(とくに重税や検地、土木工事)への反発から村の代表者をある種英雄視する伝説は前項「荒川の蝶」の西彦四郎にもあるように(しばしばその史実にかかわらず)近世の農村によく見られるもので怪異とも結びつけられやすい。
 小西正泰『虫の文化誌』(1992年)では「意外なことに、日本にはホタルにかかわる民話は少ないように思う」と述べたうえで秋田県大曲地方に伝わる「九郎兵衛」の怨霊の話を紹介している。処刑された九郎兵衛という悪者とその家族の魂が死後に蛍火となって飛ぶというもので、供養されたのちは「そこはホタルの名所となって、にぎわったそうである」ともある*16。ホタルもカゲロウも人魂の正体のひとつとされる昆虫だが、ちなみに「蜉蝣(ふゆう)の一期」とは人生をカゲロウのように短くはかないことにたとえたことわざである*17




■しゅけん | しゅけん |  地域:石川県七尾市山王町

 昔七尾の山王社にては毎年みめよき町内の娘を人身御供に上げしが、或年白羽の矢は一人娘の某方に立ちぬ。娘の父は何とかして救ふ道もなくかと娘可愛さに身も忘れ一夜社殿に忍び入り息を殺して様子を窺ひしが丑満つ頃ともおぼしきに何ものともなく声のするに耳を立つれば、若き娘を取喰ふべき祭の日も近づけるが越後のしゆけんとてよも我の此処に在るを知るまじきと呟きしなり。娘の父は夢かと打喜びしゆけんの助けを籍らんとて急ぎ越後に赴き此処彼処尋ね求めしが何等の手がかりもあらざりき。今は望も絶えたり泣く/\引返へさんとせしが、山にしゆけんと呼ぶものありと聞きせめての心遣りにと其の山に分け入りしに、全身真白なる一匹の狼あらはれ此のしゆけんに何用ありやと問ふ、娘の父は喜の涙に声ふるはせながら事の次第を語り何卒娘の命を救ひたまへと願ひしに、しゆけんは打うなづき、久しき以前外つ国より三匹の猿神此の国に渡り来り人々を害せしにより我れ其の二匹を咬殺せしが所在をくらませし残りの一匹が程遠からぬ能登の地に隠れ居しとは夢にも知らざりき、いで退治しくれんと諾ひぬ。娘の父は更に祭の日の明日に迫れるを如何せんと打嘆けば、悲むなかれ我明日おん身を伴ひ行かんと波の上を飛鳥の如く翌くる日の夕方七尾に着きぬ。かくしてしゆけんは娘の身代りとして唐櫃に潜み夜に入りて神前に供へられぬ。暴風雨の祭の一夜格闘の音物凄く社殿も砕けんばかりなりしが、人々如何とて翌朝打連れ行きて見るに年古りたる大猿朱に染りて打仆れたるが、しゆけんも冷たき骸を横へぬ。かくして人々しゆけんを厚く葬りし上、後難を恐れ人身御供の形代に三匹の猿に因み三台の山車を山王社に奉納することゝなれりと。車の人を食ふといはるゝ魚町の山車は此の山王社に人身御供を取りし猿にあたれるものなりと伝ふ。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、951〜952頁)

 猿神退治伝説の一種。毎年、5月14日に七尾市山王町の大地主(おおとこぬし)神社(山王社、山王神社は同社の通称)で行われる青柏祭の起源にまつわる話*18。また、清酒時男『日本の民話21 加賀・能登の民話 第一集』(1959年)の話では、『石川県鹿島郡誌』を出典と明記しながらも少し違ったストーリーになっている。同書では、しゅけんははじめ「白装束の修験者」の姿で現れ、猿神退治後の亡骸の発見時に「しゅけんは実は白い大狼だった」ことが判明するという展開になっている*19。また、類話に関しては『日本伝説大系 第6巻 北陸編』(1987年)の「七尾の猿神退治」のページ等を参照*20
 Wikipediaの「青柏祭」の項目にも出ているもので、他の項目に比べると知られた話だが、犬ポジションの「しゅけん」がイケメン過ぎたのでピックアップ。



■お歯黒鮒 | おはぐろぶな |  地域:石川県七尾市古府町

 七尾城の陥りし際城中にあり侍女等生きて縄目の恥を受けんよりは寧ろ躬ら死するに如かずと打語らひ城中の池に身を投じて死したりと、この池に棲むお歯黒鮒は無残の最後を遂げし侍等の怨霊なりといふ。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、969頁)

 七尾城落城に関する伝説のひとつ。平家蟹や島田蟹のように死者の怨霊が動物の身体的特徴の由来とされている話の一種だろうか? 石川県加賀市大聖寺城(錦城)は山口宗永(1545〜1600)を城主としたがその落城にも似たような話「お歯黒ヘビ」があり、小倉學ほか『日本の伝説12 加賀・能登の伝説』(1976年)によれば「落城後、大聖寺藩士が錦城山に登ったところ多数のお歯黒ヘビ(毒牙が真っ黒)におそわれたという。山口父子・奥方・腰元たちの化身でたたりがあるといわれた。一説に金沢生まれの人が登るとお歯黒ヘビは山口父子のうらみを晴らすためにかみつくと伝えられている」*21とある。



■おかね火 | おかねび |  地域:石川県七尾市古府町

夏秋の頃小雨の夜十時頃より一角*22に一条の怪火起りふわり/\と七尾町に向ひ郡町付近に至りて消失す土地の人これをおかね火と称し、矢尽き刀折れ恨を呑んで討死したる畠山氏家臣の亡魂にして人もしこれに触るれば所に生命を奪はると伝ふ。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、969頁)

 怪火の一種。七尾城落城に関する伝説のひとつ。『石川県鹿島郡誌』では、前項「お歯黒鮒」に付随する話として紹介される。



■虚空蔵坊 | こくぞうぼん |  地域:石川県七尾市東三階町〜同県鹿島郡中能登町鳥屋町

 今を去る七百年前大三階(高階、現今東三階の地)に虚空蔵山に虚空蔵寺といふ寺ありしが幾箇の下寺を有せる大寺なりしと。或時小僧が和尚の使にて満仁の摩尼殿へ書状を持ち行く途中、如何したりけん其の書状を遺し一夜捜し求めしが遂に見当らず狂はん計り途方に惑ひし小僧は申訳なしとて哀れにも河に身を投げて果てぬ。其後春の末より秋の初にかけ二宮川に沿ふ高階鳥屋の間川堤の上をふはり/\と行きつ戻りつ、草木も眠る丑満つ頃西三階の淵のあたりにてふつと消失せる一団の怪火ありこくぞうぼんといふ。或年の夏屈強の若者数名盆踊の帰るさ正体見届け呉れんと川堤に出懸け稲の茂みに忍びしが、気丈者の一人がやう/\に認めしといふは裾のあたりは茫乎とせるが身の丈六七尺もあらんか蒼白き衣服をつけ稍うつむき勝ちに無限の悲愁と怨恨に悶え苦しむが如き大の男が足早に過ぎ行きしと。こくぞうぼんは此の投身せる小僧の怨霊といひ、或は主命を受けたる若党が途中大切なる状箱を遺失せしため淵に身を投げしが其の怨霊今も状箱は無きやと行きつ戻りつ探し求むるなりともいふ。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、969〜970頁)

 水辺で目撃されたという怪火の話のひとつ。河岸に現れる怪火に関して、1.虚空蔵山の虚空蔵寺の小僧が書状を失くし川に身投げした、2.武家の若い従者が主君の書状箱を失くし淵に身投げした...という2つの由来を挙げる。



■番頭火 | ばんとうか |  地域:石川県鹿島郡中能登町

 また長曾川と久江川との間を往来する怪火あり番頭火といふ、昔村番頭の大切なる書状を遺失し遂に病を獲て亡くなりしが一念今猶ほ往きつ戻りつ書状の在所を捜すなりと。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、970頁)

 怪火の一種。『石川県鹿島郡誌』では前項「虚空蔵坊」に関連するものとして紹介されている。内容にいくらかの異同を持ちながらもとにかく“書状を失くした使者の怨霊の火が飛ぶ”という点で大筋を同じくする話がいくつか伝わっていたということだろうか(怨霊となる人物も小僧、武士、番頭とさまざまであり、何か決定的な理由づけがあるようにはあまり思われない)。番頭火が飛ぶのは「長曾川と久江川との間」とあるので、現在の県道242号線久江西交差点付近の話か。



■けんどん下げ | けんどんさげ |  地域:石川県能美市和気町

 下和気の虚空蔵道にカツパ屋という藪医者が住んでいた屋敷がある。その前の川が折れて落ち水になつている所に小橋があつて、これを国造橋という。このあたりは竹藪がおおいかぶり藪の中に大きな榎が一本あつた。昔は夜遅くなると、この榎の上にけんどんさげという化物がいて、けんどん(千石篩)を縄で下げ、通る人がその中へ足を踏み入れると上からするすると釣り上げるといつて恐ろしがられていた。日暮れからの女や子供の独り歩きをいましめて作つた話かもしれぬ。
国府村史編纂委員会編『国府村史』、国府村役場、1956年、557頁)

 垂下の怪の一種。『改訂 綜合日本民俗語彙』(1985年)の「ケンド」の項目によれば「篩の目の粗いものを、愛媛県周桑郡、岡山県小田郡などでいう。富山県の中、下新川郡や、富山近在では、ケンドンという」*23とある。宮本常一『越前石徹白民俗誌』にはケンドではなく「クルワ」が下がってくるという類話が収録されている。同書には「また、大きなクルワを下げることがある。クルワというのは、ぬれたヒエやアワをほす時に用いるもので、桶の形をし、底が網のようになっているもので、それを家のまえにある梨の木からさげるという。近頃家のまえに梨の木のある家は少なくなった」とあり、これはタヌキの仕業であるという*24。この話は村上健司『妖怪事典』(2000年)および同『日本妖怪大事典』(2005年)では「クルワ下げ」として立項されているが*25、これは村上事典における命名であり引用したように原典である『越前石徹白民俗誌』に固有名詞的な呼称はとくに出てこない。ちなみに、引用文中にある「下和気の虚空蔵道」とは同地にある虚空蔵山の道の意で、前出の「虚空蔵坊」とはとくに関係がない。「カツパ屋という藪医者が住んでいた屋敷」というのも大いに気になるが、不詳。



■雨宮の陰火 or 天狐火 | あめみやのいんか / てんこび |  地域:石川県輪島市門前町

雨宮の陰火  此の雨宮の山は村の向なるに、夜中鬼火燈れり。此は毎夜の事にあらず。天気打続きもはや雨を催さんとせし前後には、必ずこの火見ゆ。邑人は天狐火と称せり。此火見ゆれば雨近づけりと言へり。火は山上を松明を携へて往来するにひとし。多少定からずといへり。
(諸岡村史編集委員会編『諸岡村史』、諸岡村史発刊委員会、1977年、1270頁)

 怪火、とくに天候の予兆に関するものの一種。「天狐火」という名称ではあるが、狐に関する逸話はとくにないようである。



■一老大権現 | いちろうだいごんげん |  地域:石川県金沢市清水谷町

 森本の山間集落清水谷の直乗寺(日蓮宗)に一老大権現(以下権現)という天狗を祀っている。本堂中央に一塔両尊四士と日蓮を祀り、左に権現・鬼子母神・観世音菩薩を祀る。権現像は笏を持った衣冠の座像で約三十センチ位で小さい。伝承によると権現は天狗中最高位で、元は高坂地内の森本川左岸の天狗壁に住んでいた。清水谷の長老の枕元へ「清水谷の寺にいきたい」旨の夢告があってから清水谷で祀り、人びとは親しみをこめて権現様といい、集落の守護神とする。明治以降の度重なる戦争では「出征しても、清水谷の兵隊は死なない」、清水谷の山地は険しいが「山仕事で怪我しない」、集落を国道が貫通しているが「交通事故にあわない」等の御利益があるとして信仰を集めている。十月二十八日、直乗寺で権現祭りがある。〔後略〕
金沢市史編さん委員会編『金沢市史 資料編14 民俗』、金沢市、2001年、387〜388頁)

 金沢市の天狗信仰といえば何より「九万坊」の存在がよく知られ、九万坊を祀る寺院は市内9ヶ寺を数える*26橘礼吉は九万坊と一老大権現の共通性を「庶民と戦争のかかわり方」であると述べて「黒壁山九万坊奥の院には出征兵士の生還祈願絵馬があり、清水谷には「権現の加護で戦死しなかった」等の事例報告がある。国は庶民に対し命を懸けた滅私奉公を強いたが、庶民は既成宗教とは無縁の神に、夫や子供の戦場からの生還を切実に祈願していたのである」*27と、天狗信仰と戦争の関係性を指摘する。このような天狗と戦争との結びつきは近代において金沢に陸軍第九師団が置かれていたことと無関係ではない。本康宏史『軍都の慰霊空間―国民統合と戦死者たち―』(2002年)には「(...)九万坊=天狗は、「武運長久」祈願に霊験があるとされ、地理的にも第九師団の野村兵営に近い関係で軍人の祈願も多く、日露戦争以後事変ごとにますます多くの信者をみた。日中戦争に際しては千数百枚の守護札を出したという」*28とある。
 戦時に天狗が信仰を集めたのは決して金沢だけの事例ではなく、全国でもいくつかの都市で見られたことだった。岩田重則は次のように述べている。「(...)部分的であったにせよ、戦時下に事実上の流行神として天狗信仰が大流行したことは、人間の生と死に大きくかかわる時代に天狗幻想が世相の表面にあらわれたという奇妙な事実を意味しており、そして、これが奇妙であるがゆえに、天狗と戦争の関係は、流行神であるとはいえ、緊迫した時代の集中的な信仰現象であったがゆえに、天狗信仰という視点から見れば、天狗信仰の本質的な部分を示すものであると考えられ、また、民衆の精神史研究という視点から見れば、近代日本人の精神生活の重要な断面を示していると考えることができる」(岩田重則「天狗と戦争―戦時下の精神誌−」1998年)*29



 次回⇒"【妖怪メモ】石川県の郷土誌に見られる妖怪まとめ(3)"



【主要引用文献一覧】
珠洲郡編『石川県珠洲郡誌』、石川県珠洲役所、1923年
・江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年
国府村史編纂委員会編『国府村史』、国府村役場、1956年
・諸岡村史編集委員会編『諸岡村史』、諸岡村史発刊委員会、1977年
金沢市史編さん委員会編『金沢市史 資料編14 民俗』、金沢市、2001年

*1:高田衛監修『江戸怪異綺想文芸大系 第5巻 近世民間異聞怪談集成』、国書刊行会、2003年、169頁

*2:高田衛『女と蛇 表徴の江戸文学誌』筑摩書房、1999年、78頁

*3:堤邦彦『女人蛇体 偏愛の江戸怪談史』(角川叢書角川書店、2006年、38頁。堤邦彦「親鸞と蛇体の女 仏教説話から民談への軌跡」(小松和彦編『〈妖怪文化叢書〉妖怪文化研究の最前線』、せりか書房、2009年、179〜213頁)も参照。ちなみに、高田衛監修『江戸怪異綺想文芸大系 第5巻 近背民間異聞怪談集成』(国書刊行会、2003年)収録『三州奇談』における「三ツ鱗の紋」言及箇所は282頁。

*4:今野圓輔『日本怪談集 幽霊篇』(現代教養文庫)、社会思想社、1969年、14〜17頁

*5:十村肝煎(とむらきもいり) 近世、加賀藩・富山藩の行政区画であった十村において民政を司った役職。

*6:今井彰『蝶の民俗学』、築地書館、1978年、93〜106頁。飯島吉晴「虫十話 その弐 蝶 怪異を告げる蝶の群れ」、『怪』vol.0033、KADOKAWA、2011年、52頁

*7:「あたかも」の誤表記?

*8:斎藤月岑著 / 今井金吾校訂『底本武江年表 下』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、2004年、127頁

*9:岡本綺堂『半七捕物帳』の「蝶合戦」については、鄭智恵「「蝶合戦」小考」(共同研究 半七捕物帳(三))(『成蹊人文研究』第21号、成蹊大学、2013年、116〜122頁)に詳しい

*10:池田浩貴「『吾妻鏡』の動物怪異と動乱予兆―黄蝶群飛と鷺怪に与えられた意味付け―」『常民文化』第38号、成城大学、2015年、7〜17頁

*11:今井彰、前掲書、104〜105頁

*12:"チョウ - Wikipedia" https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6

*13:江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年、681頁、686〜687頁

*14:蔦江玉吉編『月津村誌』、月津村交友会、1924年、71〜72頁

*15:園田道閑の義民伝説についてはWikipedia参照。⇒"園田道閑 - Wikipedia - ウィキペディア" https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%92%E7%94%B0%E9%81%93%E9%96%91

*16:小西正泰『虫の文化誌』(朝日選書)、朝日新聞社、1992年、71頁。「九郎兵衛」の伝説については、野添憲治 / 野口達二『日本の伝説14 秋田の伝説』(角川書店、1977年、57〜58頁)等を参照。また、「秋田の昔話・伝説・世間話 口承文芸検索システム」で「九郎兵衛」で検索するといくつか概要を見ることができる。

*17:尚学図書編『故事俗信 ことわざ大辞典』、小学館、1982年、1021頁

*18:小倉學 / 藤島秀隆 / 辺見じゅん『日本の伝説12 加賀・能登の伝説』、角川書店、1976年、99〜100頁。"青柏祭 - Wikipedia" https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9F%8F%E7%A5%AD

*19:清酒時男『日本の民話21 加賀・能登の民話 第一集』、未来社、1959年、285〜287頁

*20:福田晃編、伊藤曙覧 / 藤島秀隆 / 松本孝三著『日本伝説大系 第6巻 北陸編』、みずうみ書房、1987年、246〜251頁。福井・石川両県に伝わる類話10例を挙げる。

*21:小倉學ほか、前掲書、72頁

*22:七尾城の一角の意。

*23:民俗学研究所編著『改訂 綜合日本民俗語彙 第2巻』、平凡社、1985年(第二版)、531頁

*24:宮本常一宮本常一著作集 第36巻 越前石徹白民俗誌・その他』、未来社、1992年、111頁。初出:宮本常一『越前石徹白民俗誌』(全国民俗誌叢書2)、三省堂、1949年

*25:村上健司『妖怪事典』、毎日新聞社、2000年、147頁。水木しげる画 / 村上健司編著『日本妖怪大事典』、角川書店、2006年、130頁。

*26:橘礼吉「第七節 天狗さん」(「第六章 民間信仰」)(金沢市史編さん委員会編『金沢市史 資料編14 民俗』、金沢市、2001年、382〜388頁)によれば、黒壁山九万坊(薬王寺)・桃雲寺・満願寺九万坊・卯辰山九万坊(金峰山寺)・最勝寺・西方寺・西養寺・伝灯寺山九万坊・飢渇山天狗谷九万坊の9ヶ寺。また、九万坊については、山岸共「九万坊権現の考察」(小倉學編『加能民俗研究』第6号、加能民俗の会、1978年)、高井勝己「金沢に伝わる「九万坊大権現」についての一考察」(石川郷土史学会編『石川郷土史学会々誌』第44号、石川郷土史学会、2011年)等を参照。

*27:橘礼吉、前掲書、388頁

*28:本康宏史『軍都の慰霊空間―国民統合と戦死者たち―』、吉川弘文館、2002年、328〜329頁

*29:岩田重則「天狗と戦争―戦時下の精神誌―」、松崎憲三編『近代庶民生活の展開―国の政策と民俗―』、三一書房、1998年、205頁

【妖怪メモ】石川県の郷土誌に見られる妖怪まとめ(1)

 とりあえず、石川県の郷土誌に見られる妖怪話で、目についたもの、面白そうなもののうち、一般的な妖怪事典・妖怪図鑑やネット検索にあまり引っかからないものを中心にをざっくりと抜き書きしたいくつかを順次ここに上げていこうと思う。深く掘り下げたり、各記述の妥当性を検証したりということはあまりしていないが(していないというか、この分野の作業・作法については素人なので、できない)、ネット検索で出てくる範囲の最低限の関連事項はなるべくメモとして記載した。専門的・悉皆的に先行研究を渉猟したわけではないのであくまで把握できた範囲で。話のセレクトはブログ主の好みによる。
※地域欄の自治体名は2015年現在の表記と区分を採用しているが個人で確認できた範囲なので正確性について疑問符の付くものもあるかもしれない。
※掲載順は引用文献の発行年、ついで頁順による。
※引用文中の原文にある旧字体は適宜新字体にあらためたが、かなづかい等はそのままとした。
※引用文中には今日の人権意識に照らして不適切と思われる語句や表現が含まれているが、当時の時代背景や資料的価値を鑑みそのままとした。
※各項目の「地域」の表示は、あくまでそれぞれの話の舞台となっている地域を指し、必ずしもそれらの採集地を保証するものではない。


ちなみに、今回引用した郷土誌のうち『石川県河北郡誌』、『石川県江沼郡誌』、『石川県能美郡誌』、『石川県鹿島郡誌』は近代デジタルライブラリーでインターネット上で閲覧できる。もし興味のある向きは各自参照されたい。


凡例:■妖怪名 | よみ | 伝承地域

■蕪太郎兵衛 | かぶたろうべえ | 地域:石川県金沢市木越

 字木越に藤右衛門及び長四郎の二旧家あり。共に藩の重用する所となり、藩主の此地に放鷹するや必ず其家を以て休憩所に当て、貢米の際には立会を為せりといふ。この部落はもと井水に乏しかりければ藩賜ふに鉄棒を以てし、以て之を掘削せしむ。鉄棒の一部今尚存せり。藤右衛門は一に之を蕪太郎兵衛と呼べり。嘗て検地の際、太郎兵衛夜間其境界線を変更して地積を変更す。今尚細雨霏々たる時、太郎兵衛の亡魂は其付近に彷徨して之を守ると伝ふ。
河北郡編『石川県河北郡誌』、石川県河北郡1920年、509頁)

 土地へ執着し死後もなおさまよう旧家の当主の霊の話。名前の読み方は原文にとくに記載がないため推測による。「字木越に藤右衛門及び長四郎の二旧家あり」という記述に関して、該当地域(河北潟周辺)では同じ「藤右衛門」という名の木屋(木谷)藤右衛門家の存在がよく知られる*1。木屋藤右衛門(きやとうえもん)は加賀藩の豪商。木屋家は近世初頭に西国から現在の石川県金沢市粟崎に来住したとされ北前船の廻船業や材木取引で財をなした。当主は代々藤右衛門を襲名し、とくに享保から寛政期の4〜6代目の時代に豪商として知られるようになったという。天明期には扶持高80石、所有渡廻船30数隻を数え、藩から名字帯刀を許された。木屋は屋号で名字は木谷(きたに)といったらしい*2。...と、ここまで書いてきたが蕪太郎兵衛の話と木屋藤右衛門とに直接の関係があるかどうかは不明である。



■カイラゲ | かいらげ |  地域:石川県輪島市門前町樽見

 昔樽見なり刑部の主人、村落の下方海岸に出で飛石を渉りて海中の巨岩に達し、魚を釣りて家に帰らんとしたるに、先の飛石を見ず。遂に如何ともする能はずして悶死したりといふ、土人之を刑部岩と名づけ、以て往時を偲ぶ。彼の飛石の如く見えたるはカイラゲといふ怪物がその脊を並べゐたるものなりと。
(石川県七浦小学校同窓会編『七浦村志』、細川敬文社、1920年、142〜143頁)

 巨大すぎて全体が見えないことが話の特徴となっているパターン。海面に出た巨大な怪物の一部分を陸地に誤認する話は、竹原春泉『絵本百物語』の「赤ゑいの魚」*3などが現在ポピュラーなものとして挙げられるが、岡田挺之『秉穂録』第一編巻之下にも巨物に関する数話があり、「安房勝山の浦にて、海上に小嶋あらはれたり。数日の後、口をひらきたるを見れば、大なる鰒(あわび)なり。やがて沈みて見えず」*4とある。また、脇哲『新北海道伝説考』(1984年)によれば、北海道の海上に鯨を呑む巨大魚ヲキナが現れるという風聞があり、板倉源次郎『北海随筆』、橘南谿『東遊記』、松前広長『北藩志』、同『松前志』、林子平『三国通覧図説』、串原正峯『夷諺俗話』、三保喜左衛門『唐太話』などの近世の随筆や地誌にその名が見えるという。ヲキナの全体像を見た者はなく、「まれに浮びたる時見れば、大なる島三つ出来たるごとくなるは、背のひれなるべし」(『北海随筆』)、「其の形を顕はすときは、忽然として大山の突出せるが如く、日を経て退かず、時に風波の動揺すること夥し」(『松前志』)、「只稀ニ浮ビ出タルトキ背ト鰭トヲ見ノミ也。其背ノ大ナルコト島山ノ如シト云ヘリ」(『三国通覧図説』)などと伝えられる*5。これら他の巨大生物の話に比べるとカイラゲのスケールは幾分か小さい。なお、引用箇所原文のタイトルは「刑部岩」で、名所旧跡を紹介する意図の記事である。



■うたい刀*6 | うたいがたな |  地域:石川県輪島市門前町小杉

 小杉なる上杉家に伝来の宝刀あり。その鐔に鶏の彫刻ありしが、一夜忽然として暁を報ぜり。家人之を以て不吉なりとて宝刀を放棄したりといふ。
(石川県七浦小学校同窓会編『七浦村志』、細川敬文社、1920年、145頁)

 鍔の鶏の彫り物が鳴いたという話は全国各地にいくつかあるようで、怪異・妖怪伝承データベースには「大きなおばけ」という香川県大川町の事例が登録されている。
  ⇒"大きなおばけ | オオキナオバケ | 怪異・妖怪伝承データベース"
 横井希純『阿洲奇事雑話』には次のような話がある。――ある侍が猫斬りに猫岳に登った。侍は真夜中になって次々に現れる無数の猫を相手に力尽きかけるが、そのとき鶏が鳴く声が聞こえ、猫たちは夜が明けたと思い退散する。侍の刀の鍔に彫られた鶏が主人の危急を救うべく鳴いたのであった*7
 また、ネット上で読めるものとして『信濃町の民話』にも類話が見える*8
 加えて、伝承地域は不明ながら類話が全日本刀匠会公式HPのWebコラムでも紹介されている。
  ⇒"全日本刀匠会 連載読み物「立石おじさんの刀にまつわる話」第24回"
 上記のいくつかの事例のように、鍔の鶏の彫り物が鳴く話では持ち主を化け物から救う「鶏の報恩」譚に類型される場合が多く、「うたい刀」のように不吉だから放棄したという話はどちらかというとめずらしい部類か。



■筒井ドン | つついどん |  地域:石川県輪島市門前町大滝

 字大滝の近郊に一狐穴あり。今辛うじてその跡を認め得るに過ぎざれども、昔は一老狐のこゝに棲息するあり、皆月オリヤ様の妻にして、人之を筒井どんと称したりといふ。
(石川県七浦小学校同窓会編『七浦村志』、細川敬文社、1920年、148頁)

 夫婦狐の話。下記の「オリヤ様」と並行あるいはこれに付随する話と考えられる。



■オリヤ様 | おりやさま |  地域:石川県輪島市門前町皆月

 皆月の西北方オリヤに一大岩窟あり。往古老狐之に棲み、村民にして家具を有せざる者、此処に至りてその借用を請ふ時は、明朝必ず之を洞口に得たり。依りて土人オリヤ様と称して尊敬したりといふ。後ち一農夫あり、又家具を借用したりしが、之を返却する際其一を紛失したりしかば、爾後決して何人の以来にも応ぜざるに至りきといふ。オリヤ様は又皆月築港のことに深く意を用ふる所ありしが、或時本願寺参詣の為に上洛し、帰途山中に午睡の夢を貪りしに、悪狼の害する所となり、為に築港の企図を果さざりきといふ。
(石川県七浦小学校同窓会編『七浦村志』、細川敬文社、1920年、152〜153頁)

 いわゆる椀貸し伝説に分類される話。オリヤ様については、詳しい研究として川村清志「椀貸し伝説再考――近代における伝説の生成と受容」(1997年)があり、ネット上で公開されているものを読むことができるのでそちらを参照されたい*9
 また、怪異・妖怪伝承データベースに2件の登録がある。
  ⇒"オリヤ様,狐 | オリヤサマ,キツネ | 怪異・妖怪伝承データベース"
  ⇒"オリヤ様,狐 | オリヤサマ,キツネ | 怪異・妖怪伝承データベース"
 加えて、前掲の川村論文によれば七浦民俗誌編纂会編『七浦民俗誌』(1996年)にもオリヤ様に関するいくつかの事例報告があるとのことだが、未読。



■八階松の怪 | はっかいまつのかい |  地域:石川県輪島市中段町長口

 皆月の北方、オサガクチに八階松と称する一老松あり。その上に金色の小蛇棲み、時々樹梢より神酒徳利或は茶釜を垂下することありといふ。人之を恐れて敢て近づかず。
(石川県七浦小学校同窓会編『七浦村志』、細川敬文社、1920年、153頁)

 垂下の怪の一種。長口(おさがぐち)は輪島市中心部、石川県輪島漆芸美術館にほど近い中段町にある地名。「皆月の北方」というにはいさかか距離があるようにも思われるが...。



木瓜の尾花、手長の尾白 | ぼけのおばな、てながのおじろ |  地域:石川県小松市庄町

 字加茂俗称木瓜(ボケ)及び手長(テナガ)の地には、古来木瓜の尾花、手長の尾白と称する老狐ありて、昼夜出没し、時々通行人を誑せりとの怪談多かりしが、近時は全く之を説くものなきに至れり。
(江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年、887頁)

 上記「オリヤ様」&「筒井ドン」と同じく夫婦狐の話だが、どのような「誑かし」をしたのか等の詳細はわからない。というか(『石川県江沼郡誌』が刊行された大正期の時点において)もはや話の詳細が分からなくなってしまったということ自体が話の内容になっている事例か。狐の身体的特徴がその名前になっているパターンのひとつ。



■梅雨蛇 | つゆへび | 地域:石川県加賀市山中温泉

 字四十九院を去る約十町の道路に面したる山林中に在る、高さ十尺周り六間許の岩石の中央に割れ目あり。毎年梅雨の頃一二回、蛇の脊部を此の欠隙に露出することあり。若し之に觸るゝ事あらば大暴風雨ありと伝ふ。
〔江沼志稿〕 *10
 四十九院。欠岩と云所有、村より十四五町奥也、年毎に梅雨の比、岩ひたへに蛇出ると、土俗梅雨蛇と云。
(江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年、970〜971頁)

 梅雨の間だけ岩肌に現われる蛇に関して、小島瓔礼『蛇の宇宙誌 蛇をめぐる民俗自然誌』(1991年)によれば、広島県北部から島根県西部にかけて「ツユザエモン」と呼ばれる蛇の言い伝えがある。斐伊川近郊ではツユジン、出雲の能義郡(現島根県安来市)ではツユザイと称する。ツユザエモンは、普段は岩肌の割れ目などに姿を隠しているが、梅雨の間だけ胴体を現すという。最初は蛇の頸部のみ、次は胴部のみ、最後は尾部のみと露出する部分が時期により変化するが頭と尾の先は見せない*11
 怪異・妖怪伝承データベースには島根県飯石郡の「ツユジンさん」の事例が登録されている。
  ⇒"サンバイさん,ツユジンさん | サンバイサン,ツユジンサン | 怪異・妖怪伝承データベース"
 また、露出部分の変化についての言及はないが、「ツユザエモン」、「ツユジン」の登録事例もある。
  ⇒"田の水口,田の神,ツユザエモン | タノミナクチ,タノカミ,ツユザエモン | 怪異・妖怪伝承データベース"
  ⇒"ツユ神 | ツユジン | 怪異・妖怪伝承データベース"
  ⇒"ツユ神 | ツユジン | 怪異・妖怪伝承データベース"
 石川県の梅雨蛇と中国地方のツユザエモンとの関連、もしくは他地方に同様の話がどの程度あるのかについてはわからない。



■神主様河道 | かんぬしさまかどう? |  地域:石川県小松市安宅町

 神主様河道とは、海岸一部の地名なり、其沖に一個の釜の沈没せるものありといふ、往昔浦人の妻某、性頗る懶惰にして釜底を磨くことなく、煤煙付着して屑を為せり、一日舅姑に迫られ、已むを得ず河岸に至りて之を洗はんとせしが、隅々春日遅々たりしかば、釜を擲ち叢間に午睡を貪れり、是に於て釜は怒りて自ら水底に入り、遂に死して妖神となる、其後時に或は奇音を発して遊泳の小児を驚かし、甚だしきに至りては之を捉へて溺死せしむることありといふ、
(石川県能美郡役所編『石川県能美郡誌』、石川県能美郡役所、1923年、747頁)

 これも読み方はよくわからなかった。テレビ番組『まんが日本昔ばなし』等において「釜妖神(かまようじん)」の名で知られる話の出典。「まんが日本昔ばなし〜データベース〜」によれば、番組では清酒時男『日本の民話21 加賀・能登の民話 第一集』(未来社、1959年)を出典としており、この本での話のタイトルが「釜妖神」となっている*12 *13。また、前掲書を再編増補したと思われる同じく未来社清酒時男ほか編『日本の民話12 加賀・能登・若狭・越前篇』(1974年)においても同題である*14。しかし、「釜妖神」というタイトルは未来社の書籍収録時に新たに付けられたものである。引用した通り、上記の両書籍が出典としている『石川県能美郡誌』(1923年)における話のタイトルは「神主様河道」であり、怪異の起こる場所の地名から採られている。『石川県能美郡誌』の記事中にも「釜妖神」という固有名が出てくるわけではなく、「釜妖神」とは「遂に死して妖神となる」という一文から『加賀・能登の民話』収録時に考え出された呼び名であるようだ。付記すれば、『加賀・能登の民話』においてもタイトルこそ「釜妖神」となっているものの本文中では「釜は川の妖神になった」「(...)妖神になった釜の方では」とあり、これが固有名詞として登場する箇所はない。ちなみに、『安宅誌』(1933年)にも同内容の話があるが、「北村家裏手の沿岸で、その河中に釜一個沈んでゐるとの伝説がある。昔、浦人の妻某甚だ懶惰で釜底を磨くことがなく、いつも煤だらけになつてゐた。或日姑に迫られて仕方なしに河岸に行つたが、春の日の永の長閑けさに、うと/\と居睡をして洗はうとしなかつた。釜は怒つて水底に沈み、其処の妖主となり、時々奇音を出して水泳の子供を驚かしたり、溺死させたりするといふ」*15とあり、「妖神」ではなく「妖主」という呼び方になっている(もし『加賀・能登の民話』が『安宅誌』のほうを直接の出典としていたら「まんが日本昔ばなし」でのタイトルは「釜妖主」になっていた可能性もあったのかもしれない...)。より有力なメディアが何を出典としたかによってその後の巷間での呼び名が変わってしまう事例といえるだろうか(まあ、「釜妖神」自体あまりメジャーとはいえないかもしれないが...)。奇音を発し泳ぐ子供を溺死させるというところは水神や河童っぽくもあり、むしろ怠惰な妻が釜を云々の下りは後付けなのかもしれない。



■小四郎火 | こしろうび |  地域:石川県能美郡川北町木呂場

 木呂場の北方に当り、明治初年に至るまで小四郎松と称するありて、落武者のこゝに戦死せる所なりと伝へ、天曇り、雨近き夜など霊火の現はるゝありき、方人之を称して小四郎火といへり、
(石川県能美郡役所編『石川県能美郡誌』、石川県能美郡役所、1923年、1585頁)

 怪火の一種。引用文中に登場する「落武者」の名前は明記されていないが、彼が死んだ(とされる)場所にある松が「小四郎松」と呼ばれていたというのだからおそらく「小四郎」がその名前と考えてよいだろう。「小右衛門火」(『御伽厚化粧』)、「権五郎火」(外山歴郎『越後三條南郷談』ほか)、「八十松火」(『静岡県伝説昔話集』)などのように、名称が{(恨みを残して死んだ人物の)人名+火}になっているパターンか。



■弥三平狐 | やそべい(やそべ?)ぎつね |  地域:石川県七尾市

 石崎寺山の東堂ヶ谷といふ所に昔老孤棲み居たりしが村へ狐の穴に至り家具の借入を頼み置き、後刻更に穴に至りて見ると頼みし家具の数を揃へて穴の口に出し在りしといふ。
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年、942頁)

 不詳。椀貸し伝説の一種。「石崎寺山の東堂ヶ谷」という地名も地図で見た限りでは現在のどこに該当するのかよくわからない。七尾市に石崎山という地名があるがその辺りだろうか。



■タンガイ様 | たんがいさま |  地域:石川県七尾市能登島長崎町

 野崎の田んぼの中に、ありゃ八幡さんがあった所で、今、まん中に杉の木が一本あって、宮跡て名で、その田んぼに、タンガイ様て貝がおって、その貝をひろとったもんで、それから出る水を目につけるとよお効くゆう話を聞いて、ほうぼうから来たもんで、ほれで、あるうちのおばあさんが、ほんなら水つけてさえ治おるもんを、これ焼いて食べたら、なお効くやろゆうて、ほして(そうして)食べたところが、目くらんなったてゆうことや。
能登島町史専門委員会編『能登島町史 資料編第二巻』、能登島役場、1983年、989頁)

 『日本方言大辞典』(1989年)によれば、「タンガイ」は「タガイ」(田貝)の意で、貝、とくにからすがいを指す方言であることが『重訂本草綱目啓蒙』(1847年)にみえる*16
 「タンガイ様」で検索するとテレビ金沢が現地取材をした2008年の記事が出てくる。
  ⇒"誉のドコ行く?―となりのテレ金ちゃん"



■大坪の化物 | おおつぼのばけもの |  地域:石川県白山市成町

 成には大坪の火葬場があり、その川沿いの道路には傘をさした女性が現れたという。小雨の降る暗い夜道を真夜中で一人で歩いているときに女性に会うのは、男でも何となく気味悪く感じ、思わず「誰や」とか「今晩は」とか声をかけてしまう。昔の人は自分のことを私と言わず「うらや」と返事したものであるが、化物は人と同じく「うらや」とはいえず「うなや」と返事したという。
(『出城のれきし』編纂委員会編『出城のれきし』、出城地区連絡協議会 / 出城地区町内会長会 / 出城公民館、1994年、969頁)

 夜道で声をかけた時の返答で相手が化物かどうかを識別する話は全国にある。よく引用されるところでは、柳田国男『妖怪談義』に石川県加賀地方のガメと能登地方のカワウソの例が出ている。「加賀の小松附近では、ガメという水中の怪物が、時々小童に化けて出ることがある。誰だと声をかけてウワヤと返事をするのは、きっとそのガメであって、足音もくしゃくしゃと聞えるという。能登でも河獺は二十歳前後の娘や、碁盤縞の着物を着た子供に化けて来る。誰だと声かけて人ならばオラヤと答えるが、アラヤと答えるのは彼奴である。またおまえはどこのもんじゃと訊くと、どういう意味でかカハイと答えるとも謂う」(柳田国男「妖怪談義」)*17



■六尺坊主 | ろくしゃくぼうず |  地域:石川県白山市上柏野町

 山島用水の下流、長島と剣崎の境界から上柏野地内に入ったところに、「松原河原」「大島」と呼ぶ地名の個所がある。大正前期までは荒地で小山があり、樹木が生い繁り昼でも暗く、村人は寄りつかず、ケモノ(獣)たちの格好の住む場所だったと。村の地主は奉公人に給与がわりに「新外田」のたんぼを何枚かずつ与えたそうな。もらった奉公人たちは、昼は主人の家の仕事に、夜は「新外田」を一所懸命にたがやし、小遣いかせぎに汗を流していたそうな。
 ある日のこと、田をたがやすことに夢中になり、真夜中になってしまい、なにかの気配で、ふと頭をあげると、目の前に六尺坊主があらわれてじっと奉公人を見ていたがや。腰をぬかさんばかりにびっくりした奉公人は、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と唱えながら念仏していると、いつのまにやら、この六尺坊主は霧のように消えていなくたったがや。奉公人は、いまのうちに帰らんなんと農具を捨てて家に逃げ帰り、翌朝までふとんの中でふるえておったというはなしや。
(加賀松任柏野郷土史編纂委員会編 / 山根公監修『加賀松任 柏野郷土史』、松任市立柏野公民館、1995年、685〜686頁)

 怪異・妖怪伝承データベースに、石川県石川郡河内村(現同県白山市河内町)の同名事例がある。
  ⇒"六尺坊主 | ロクシャクボウズ | 怪異・妖怪伝承データベース"
 また、カワウソが六尺坊主に化けるとされる富山県の事例も登録されている。
  ⇒"かわうそ | カワウソ | 怪異・妖怪伝承データベース"
 怪異・妖怪伝承データベースに登録されている事例のみを見ると、六尺坊主は坂に現れる妖怪であるとも受け取れるが、『加賀松任 柏野郷土史』では畑で遭遇しており、場所や地形はあまり重要な条件ではないようだ。むしろ怪異・妖怪伝承データベースの事例と合わせて考えると、「六尺坊主」という呼び名があまり前提なく当たり前のものとして扱われている感がある。長さの単位でいうと六尺はちょうど一間(約1.1818m)に当たり区切りのよい長さとして用いられていたと思われ、“六尺坊主”という呼称も“一間程度の大きさの化け物”を意味する通称の類だったのかもしれない。また、近世において人夫や小間物の行商人を指して「六尺」とも称したというが何か関連があるかどうかはわからない。



■天刹 | てんさつ |  地域:石川県金沢市橋場町

 金沢における古い神社として知られる浅野川神社(橋場町)に、白狐が書いたという「稲荷大明神」という神号があり、これには「天刹(てんさつ)」という署名がある。文化五年(一八〇八)に楠部屋芸台(くすべやうんだい)が執筆した由来書によれば、この天刹なる者は越中立山で千年の行を積んだ白狐だったという。金沢城下に現れて吉凶・禍福等の予知をはじめ不可思議な行動で人びとを驚かしていたが、人間世界から離れる時が到来して姿を消した。その前、懇意にしていた嶋屋喜右衛門の切望によって神号を書き与えた。後年、その神号を上堤町の浅野屋次兵衛が譲りうけたという由来があった。堀麦水(天明三年〔一七八三〕没)の『三州奇談』にも類似の伝説が見えるが、この神号に関する伝承はない。神号を譲りうけた浅野屋次兵衛はこれを秘蔵し、おそらく信仰の対象に仰いで奉斎したと思われる。子孫が守護しきれなくなって浅野川神社に奉納したのであろう。〔後略〕
金沢市史編さん委員会編『金沢市史 資料編14 民俗』、金沢市、2001年、378頁)

 引用した『金沢市史』の該当頁には浅野川神社に今も残るという「天刹」署名の実物の写真が掲載されている。引用文中にもあるように『三州奇談』巻之四「浅野稲荷」も参照*18(『三州奇談』のこの話については柳田国男「熊谷惣左衛門の話」でも紹介・考察されている*19 )。引用文中の楠部屋芸台(1760〜1820)については、日置謙編『加能郷土辞彙』(1942年)に、「クスベヤキンゴロウ 楠部屋金五郎 諱は肇、字は子春、号は芸台。父の諱は定賢、鳳至郡の農であつた〔中略〕文政三年九月廿九日六十一歳で没し、野田山に葬り、頼山陽が碑文を書いた。その著に加賀古跡考八巻がある」*20とある。楠部屋芸台の著作である『加賀古跡考』に何か関連事項の記載があるかもしれないが未読。また、天刹の神号とその由来についてはとくに小倉學「稲荷大明神掛軸之来囚 白狐が書いた稲荷の神号」(『加能民俗研究』第30号抜刷、1999年)*21に詳しいと思われるが、これも未読。



■長屋火 | ちょうやび |  地域:石川県白山市長屋町

 長享二年(一四八八)五月十三日、富樫政親の命により越前口の援路を開くため、高尾城より南下した松坂八郎信遠ら二千の兵は、江沼郡の一揆方に敗れ、残兵三百余人が、高尾城に引き返すため、今湊より手取川を渡ったところ、長屋の一揆勢の攻撃を受け、この地において全滅したことが『官地論』や『越登賀三州志』に伝記されている。そしてこの頃より、当地周辺に火の玉があらわれ、これが長屋火と呼ばれるようになったと伝えられる。長屋地区の人々にとって長屋火は、村を守り抜いた尊い生命の証しであると信じられてきたのである。太平洋戦争の末期に福井・富山の両市が爆撃で被災した時、二夜とも村外れで、くるくる廻りながら飛んで行く火の玉を多くの人が見たという。これが伝説の長屋火である、と地区では話されている。〔後略〕
(蝶屋村史編纂専門委員会 / 蝶屋村史編纂委員会編『蝶屋の歴史 集落・資料編』、石川県美川町、2002年、21〜22頁)

 加賀の一向一揆、とくに長享の一揆にまつわる怪火の話。長享2年(1488)、加賀国守護・富樫政親の弾圧に対し本願寺門徒が蜂起。結果、政親は自死し以後約100年にわたって加賀国では一向宗勢力の合議制による自治が続いた。かつて見られた「怪しい火」の話というだけでなく、戦時中に目撃された「火の玉」にもこれが当てはめられていたというのが興味深い。それだけ地元では一向一揆が長く重要な歴史的事象として扱われているのだということが「村を守り抜いた尊い生命の証し」という記述からも伺える。近隣地域の類似事例に「高尾(たこ)の坊主火」(石川県金沢市高尾)があり、小倉學ほか『日本の伝説12 加賀・能登の伝説』(1976年)によれば、一向一揆で滅ぼされた富樫政親の怨念の火が夜に飛ぶのだという*22。『金沢市史 資料編14 民俗』(2001年)には、「富樫政親がね、高尾城で討死してその怨念が残っとって、怪しい火の玉になって高尾の城山にあらわれ、西の野々市の方へ飛んで行くというわけや。夏になると、何かの火の玉が飛ぶようになって見ることがあるわいね。それを高尾の坊主火といっておるわいね。子供の頃に、あんまり遅うなると、「高尾の坊主火が出てくるぞ」と年寄りによう言われたことがある」という話が出ている*23。この「高尾の坊主火」の話は鳥越城跡(石川県白山市三坂町)にも伝わり、同地上空に高尾の坊主火が飛んでくる夜は川に網をかけても変な物しかかからず不漁になるのだという*24。どちらも加賀の一向一揆に関する怪火の話だが、「長屋火」は“村を守り抜いた尊い生命の証し”、「高尾の坊主火」は“富樫政親の怨念の火”と立場的には正反対の位置にとらえられているようだ。



 今回上げられなかったものについては次回の記事で。
 
 次回⇒"【妖怪メモ】石川県の郷土誌に見られる妖怪まとめ(2)"



【主要引用文献一覧】
河北郡編『石川県河北郡誌』、石川県河北郡1920年
・石川県七浦小学校同窓会編『七浦村志』、細川敬文社、1920年
・江沼郡編『石川県江沼郡誌』、石川県江沼郡役所、1923年
・石川県能美郡役所編『石川県能美郡誌』、石川県能美郡役所、1923年
鹿島郡自治会編『石川県鹿島郡誌』、鹿島郡自治会、1928年
能登島町史専門委員会編『能登島町史 資料編第二巻』、能登島役場、1983年
・『出城のれきし』編纂委員会編『出城のれきし』、出城地区連絡協議会 / 出城地区町内会長会 / 出城公民館、1994年
・加賀松任柏野郷土史編纂委員会編 / 山根公監修『加賀松任 柏野郷土史』、松任市立柏野公民館、1995年
金沢市史編さん委員会編『金沢市史 資料編14 民俗』、金沢市、2001年
・蝶屋村史編纂専門委員会 / 蝶屋村史編纂委員会編『蝶屋の歴史 集落・資料編』、石川県美川町、2002年

*1:木屋藤右衛門家の詳しい来歴については、清水隆久『木谷吉次郎翁――その生涯と史的背景』(故木谷吉次郎翁顕彰会、1970年)、北西弘編『木谷藤右衛門家文書』(清文堂出版、1999年)を参照。また、木屋家の廻船業の経営展開については、清水隆久「加賀の海商、木谷家一門の系譜について」(石井謙治編『日本海事史の諸問題 海運編』、文献出版、1995年)、高瀬保加賀藩の海運史』(成山堂書店、1997年)、中西聡『海の富豪の資本主義 北前船と日本の産業化』(名古屋大学出版会、2009年)、中西聡『北前船の近代史 海の豪商たちが遺したもの』(交通研究協会・成山堂書店、2013年)等を参照のこと。

*2:北國新聞出版局編『書府太郎 石川県大百科事典【改訂版】 上巻』、北國新聞社、2004年、70〜71頁

*3:"赤えい (妖怪) - Wikipedia" https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%88%E3%81%84_(%E5%A6%96%E6%80%AA)

*4:柴田宵曲編『奇談異聞辞典』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、2008年、221頁

*5:脇哲『新北海道伝説考』、北海道出版企画センター、1984年、166〜172頁

*6:原文では「うたひ刀」。

*7:小島瓔礼『猫の王――猫はなぜ突然姿を消すのか』(小学館、1999年、61〜62頁)より要約文を孫引き。原典は、横井希純著 / 坂本章三校訂『阿洲奇事雑話』(阿波叢書・第1巻、阿波郷土研究会、1936年、89頁)。

*8:「さては、妖怪変化だ。/武士は、地蔵を放って腰の刀をさっとぬいた。/ そのとたん、武士の刀のつばについていたニワトリの彫り物が、「コケコッコー。」と激しいときをつげた。/大岩の上に立っていた女は、みるみる山んばに変身し、宙を飛んで姿をけした。」 ⇒"『信濃町の民話』古海街道の美女" http://www.kitashinanoji.com/minwa/naganochiku/shinanomachi/katakagohen/hanashi/099furumi-bijyo.html

*9:川村清志「椀貸し伝説再考――近代における伝説の生成と受容」、『人文学報』第80号、京都大学人文科学研究所、1997年、109〜143頁、"Kyoto University Research Information Repository: 椀貸し伝説再考 ―近代における伝説の生成と受容―" http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/48508

*10:小塚秀得『加賀江沼志稿』のこと。安田健編『諸国産物帳集成 第2期 江戸後期諸国産物帳集成 第6巻 (越中能登・加賀・越前・若狭・信濃)』(霞ヶ関出版、1999年)に収録。ブログ主未読につき、確認次第追記する可能性あり。

*11:小島瓔礼編著『蛇の宇宙誌 蛇をめぐる民俗自然誌』、東京美術、1991年、74〜75頁。また、臼田甚五郎「田の神とツユジンさん」(『民間伝承』3巻10号、民間伝承の会、1938年)、石塚尊俊「ツユ神」(『民間伝承』16巻1号、日本民俗学会、1952年)も参照。

*12:"まんが日本昔ばなし〜データベース〜 - 釜妖神" http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=857

*13:清酒時男『日本の民話21 加賀・能登の民話 第一集』、未来社、1959年、39頁

*14:清酒時男 / 杉原丈夫 / 石崎直義編『日本の民話12 加賀・能登・若狭・越前篇』、未来社、1974年、39頁

*15:安宅関址保存会編『安宅誌』、安宅関址保存会、1933年、101頁

*16:尚学図書編『日本方言大辞典 下』、小学館、1989年、1366頁

*17:柳田国男小松和彦校註『新訂 妖怪談義』(角川ソフィア文庫)、角川学芸出版、2013年、22〜23頁/初出:柳田国男「妖怪談義」『日本評論』第11巻第3号、1938年

*18:高田衛監修『江戸怪異綺想文芸大系 第5巻 近世民間異聞怪談集成』、国書刊行会、2003年、235〜236頁

*19:柳田国男『一つ目小僧その他』(角川ソフィア文庫)、角川学芸出版、2013年、311〜328頁

*20:日置謙編『加能郷土辞彙』、金沢文化協会、1942年、257頁 ⇒"加能郷土辞彙 - 近代デジタルライブラリー" http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123720/133

*21:小倉學「稲荷大明神掛軸之来囚 白狐が書いた稲荷の神号」、『加能民俗研究』第30号抜刷、加能民族の会、1999年、12〜21頁。のちに、小倉學「白狐が書いた稲荷の神号」(小倉學著 / 三橋健監修『加賀・能登の民俗 小倉學著作集 第3巻 信仰と民俗』、瑞木書房、2005年)として再録。

*22:小倉學 / 藤島秀隆 / 辺見じゅん『日本の伝説12 加賀・能登の伝説』、角川書店、1976年、20〜21頁

*23:金沢市史編さん委員会編『金沢市史 資料編14 民俗』、金沢市、2001年、666頁

*24:小倉學ほか、前掲書、36頁

宮武外骨編『骨董雑誌』にみる怪異妖怪記事

 図書館で『骨董雑誌』をめくっていたら妖怪的に面白そうな記事がけっこうあったのでまとめてみることにした。ざっくりまとめただけで抜けや勘違いがあるかもしれないので、随時訂正するかも。
 
 『骨董雑誌』は宮武外骨が編集発行をしたいくつかの雑誌のひとつである。明治29年(1896)11月〜明治31年(1898)6月の間に号外を含めて全12冊が発行された。後続誌として『骨董協会雑誌』全4冊がある。

 『骨董雑誌』および『骨董協会雑誌』は、『頓智協会雑誌』や『滑稽新聞』と比べてユーモアや風刺の要素が見られないことなどから、宮武外骨の仕事としてよく知られているとはあまりいえないところがある。なので、雑誌そのもののことを少し紹介する必要があるだろう。

 『骨董雑誌』の記事は「論説」「骨董」「叢談」「文苑」「問答」「雑録」「新聞」「集古百種」「半狂堂随筆」などのコーナーから成り、さらに「骨董」のコーナーは「袋物」「古銭」「祭具」「武器」「図書」「盆栽」「文具」「盆石」「楽器」「書画」「雑品」といった項目に分けられていた(といっても「骨董」欄のこの区分けは第3号までしか続かないのだが)。

 図書とか盆栽は「骨董」なのか?という疑問には、第1号の「問答」欄(つまりQ&Aコーナー)に、「骨董の字義よりいふも世間慣用の範囲よりいふも書画、盆栽、図書等は骨董の部類にあらず、然れども本誌の記事は必竟坊間の骨董舗に倣ふものなり彼の店頭には幅物、植木、写本の類をも雑陳するにあらずや」*1という答えが用意されている。一般的な意味での「骨董」というよりも、あくまで骨董品屋に並ぶようなものを対象としたということらしい。
 
 『骨董雑誌』創刊の理由は第2号の目次横に掲げられた「謹デ本誌愛読家諸君ニ告グ」によれば、以下のような経緯であったと外骨は述べる。

〔前略〕…本年六月三陸地方大海嘯の後聊か保養旁々友人骨董家木村某氏と倶に其視察に赴きし際陸中釜石港にて同地の豪商故小軽米汪氏(岩手県会常置委員)の遺族老母と実弟が恰も乞食小屋の如き内に漂着の器具(世帯道具はじめ金屏風の破れ銀瓶の潰れ等)を拾ひ集めて纔に露命を繋ぎ居たる惨状を目撃し此一事は特に余の脳裡を去らざりしが旅中木村氏と互に悲惨同情談の外木村氏より骨董物に関する奇事内幕等を聞取りたると一ツには耳底に残れる右小軽米氏の老母が此金屏風と銀瓶は紀念のために子孫へ残さんなど涙ながらの物語を相連合して終に余の宿癖を挑発し茲に図らずも此骨董雑誌の発行を思立たしむるに至りたる次第なり…〔後略〕

 明治29年(1896)6月、三陸地震直後の被災地現地視察での体験を通じて雑誌の創刊を決意したのだという。
 実際、『骨董雑誌』第1号では、外骨が視察の際に現在の宮城県気仙沼市大峠山綱木坂の辺りにある茶屋で、熊の掌を打ち付けた額を見た話をレポートしている*2

 日本で最初の骨董の専門誌*3はこうしてはじまった。

 
 さて、前置きはこれくらいにしてそろそろ本題に入ろう。『骨董雑誌』を読むと、骨董品の紹介や考証、それにまつわる奇事逸話に交じって「怪異妖怪記事」と呼んでも差し支えないような記事がいくらかあることに気づく。

 それらをとりあえずリスト化したのが以下の表である。
 表に挙げた記事のうち、執筆者も出典もとくに記載のない記事は基本的に宮武外骨の筆によるものと考えてよいだろう。
 なお、今回は明治31年(1898)3月発行の「号外」は確認できていない。


(表)骨董雑誌の怪異妖怪記事一覧

整理番号 掲載巻号 発行年月 コーナー タイトル 執筆者 出典 内容 備考
1   第2号 1896.12 新聞 大阪城落城の際の血刀 ---- 報知新聞 大阪城落城時から伝わるという古刀には鮮やかな血痕が残っていた ----
2   第3号 1897.1 骨董(盆石) 産女石 ---- ---- 衆議院議員吉村成行氏の家に伝わる産女から贈られたという怪石 ----
3 第2編第1号 1897.4 骨董 皿屋敷の皿 ---- 煙草雑誌 佐賀県材木町池田干六氏の所蔵する珍しい皿 編者コメントあり
4 第2編第1号 1897.4 雑録 日本名物不思議骨董集(天) ---- ---- 「瑞岩寺の翁面」「望夫石」「剱権現の剱」「無間の鐘」の4話を紹介 ----
5 第2編第1号 1897.4 新聞 名刀怪談 ---- 東京朝日新聞 浅草の教善院に伝わる名刀正宗の刀身のみがいつの間にか消え失せ別の場所に現れる ----
6 第2編第1号 1897.4 集古百種 「骨董物語」夜光玉、魚住水晶、軽重石 橘南谿 北窓瑣談 奇石珍玉の信憑性に疑義を呈す ----
7 第2編第2号 1897.5 骨董 皿屋敷の皿に付異説 東京 車山楼主人 投稿 盛岡の大泉寺にお菊の皿4枚が伝わる ----
8 第2編第2号 1897.5 雑録 日本名物不思議骨董集(地) ---- ---- 「苔野ヶ淵の沓石」「大峰の鐘」「総持院の書使地蔵」「泉州の瓶」「浅草寺の絵馬」の5話を紹介 ----
9 第2編第3号 1897.7 骨董 皿屋敷の皿に付再異説 ---- ---- 『知玉叢誌』(明治23年)の説を紹介 ----
10 第2編第3号 1897.7 骨董 仏像石 東京牛込神楽坂下 風処子 投稿 高祖父が夢告げによって得たと伝える、中心に仏像と称する黒い小塊のある鼈甲のような石 編者コメントあり
11 第2編第3号 1897.7 新聞 宝珠観音石 ---- 北陸新聞 三野昌平氏の所蔵する宝珠観音に似た形の石は斎持呪誦すれば必ず宝を降らすという ----
12 第2編第4号 1897.7 雑録 日本名物不思議骨董集(玄) ---- ---- 「釈帝石」「長楽寺の鈴」「最乗寺の金印」「比叡山祇園石」の4話を紹介 ----
13 第2編第4号 1897.7 新聞 化石の弟 ---- 読売新聞 明治初期の流行仏「化石さま」は間部大作という旗本が幌内から持ち帰った奇石の一片 ----
14 第2編第5号 1897.11 骨董 御難有の鏡 ---- ---- 日光を反射させると南無阿弥陀仏の6字を映す円鏡 ----
15 第2編第5号 1897.11 骨董 文福茶釜 東京 石谷清明 投稿(前半) 茂林寺所蔵の文福茶釜の図と報告 後半は編者コメント+十返舎一九作の落語の引用
16 第2編第5号 1897.11 雑録 日本名物不思議骨董集(黄) ---- ---- 「頬焼地蔵」「吉備津宮の釜」「音響を発する恵比寿大黒」の3話を紹介 ----
17 第2編第5号 1897.11 新聞 黄金仏石岩礁より出現す ---- ---- 山口県の漁夫が純金の観音像を岩の中から発見 引用元の新聞名の記載なし
18 第3編第1号 1898.6 半狂堂随筆 七不思議と八景 ---- ---- 次号記事の予告文 ----
19 第3編第2号 1898.7 骨董 奇鏡の正体 ---- 投稿(部分) 長田茂作氏が第2編第5号「御難有の鏡」の記事に対し科学的見解を寄せる 投稿の紹介
20 第3編第2号 1898.7 半狂堂随筆 日本全国七不思議集(二) 松風舎蒼龍、越後 内藤彌 投稿 「肥後成道寺の七不思議」(松風舎蒼龍)、「甲斐早川の七不思議」(越後 内藤彌)の投稿 (二)とあるが連載の第1回
21 第3編第3号 1898.8 半狂堂随筆 日本全国七不思議集 越後 内藤彌 投稿(前半) 「甲斐早川の七不思議 続」(内藤彌)、「大阪天満の七不思議」(『商業資料』)、「土佐蹉跎山の七不思議」(『諸国里人談』) 前号に続く連載第2回


 当然のことながら、すべて何らかの骨董品――「もの」にまつわる話である。
 それらの多くは新聞記事の再録だったり有名な逸話の紹介だったりであまり目新しい話はない。しかし、「日本名物不思議骨董集」「日本全国七不思議集」といった枠が設けられ、骨董に関連した不思議な話が積極的に取り上げられている。これらの枠が号を跨ぎ数回にわたって続いていることから、単なる骨董品の紹介や考証だけでなく、こういった「不思議な話」が当時の外骨自身あるいは読者層の関心事のひとつにあったことが伺える。


 「日本不思議骨董集(天)」には以下のような序文が添えられている。

世に不思議なしとすれば不思議なるもの絶えて無く又不思議ありとすれば天下何物か不思議ならざらんや有も不思議無も不思議なり、今日業々しく妖怪学などといへる名目を付し俗物をあやなして講義料を〆込む山師哲学者の世に時めくも亦是れ一種の不思議といへば不思議なりなどと理窟を言ふ人もあらんかなれども茲に古来我国に於て不思議とする事の多き中より骨董物に関係の奇聞怪談、其事の真偽を問はず伝説の儘を集録すれば左の如し*4

 井上円了の妖怪学を意識しつつ、日本に古来から伝わる奇聞・怪談の中から骨董品に関するものを、その真偽を問わず集録することが述べられている。

 「日本不思議骨董集」では、文献に従って各地の伝説を紹介している。出てくる伝説は名前と伝承地のみが挙げられているものと内容も含めて紹介されているものとがある。同欄は天・地・玄・黄の全4回続いたが、各回の記事ではどのような伝説が取り上げられていたのか。順に抜き出してみる。


 「日本名物不思議骨董集(天)」(第2編第1号)では、「霧島山の天之逆鉾」(日向)、「大峰の鐘」(紀伊)、「佐用中山の夜泣石」(遠江)、「無間の鐘」(遠江)、「領巾磨嶺の望夫石」(肥前)、「三幹の鐘」(筑前)…などの34タイトルが挙げられている*5。このうち内容と出典が紹介されているものが、「瑞岩寺の翁面」(『松島図誌』、『松島案内記』)、「望夫石」(『大日本史』、『神異経』)、「剱権現の剱」(『讃岐廻遊記』)、「無間の鐘」(『諸国里人談』)の4話である。

 「日本名物不思議骨董集(地)」(第2編第2号)では、前回の未収録分として「南都総持院の書使地蔵」(大和)、「釈帝石」(日向)、「小田原宿最乗寺の金印」(相模)、「木葉石」(肥前)…などの13タイトルが挙げられている*6。そして前回に引き続き内容と出典が紹介されているものが、「苔野ヶ淵の沓石」(『新著聞集』)、「大峰の鐘」(『諸国里人談』)、「総持院の書使地蔵」(『袖鏡』)、「泉州の瓶」(『鹿島日記』、『総常日記』、『諸国里人談』、『利根川図志』)「浅草寺の絵馬」(『桂林漫録』)の5話である。

 名前だけの列記は「地」までで、「日本名物不思議骨董集(玄)」(第2編第4号)では、「釈帝石」(『新著聞集』)、「長楽寺の鈴」(『諸国里人談』)、「最乗寺の金印」(『諸国里人談』)、「比叡山祇園石」(『御山のしをり』)の4話が、「日本名物不思議骨董集(黄)」(第2編第5号)では、「頬焼地蔵」(『摂津名所図会』)、「吉備津宮の釜」(『諸国里人談』)、「音響を発する恵比寿大黒」(「木原通徳君*7新聞切抜投書」)の3話が紹介されている。

 ほとんどが近世以前の説話集や地理書、日記等に拠っているのが分かる。とくに『諸国里人談』が頻繁に登場するのは外骨の思い入れなのか、あるいは単にカタログ的に便利だったからか。
 この連載枠の性格は、「日本全国七不思議集」でも基本的に同じである。


 他の記事に目を向けると、「日本名物不思議骨董集」「日本全国七不思議集」が全国の名所と結びついたよく知られた伝説を取り扱ったのに対し、「新聞」欄では、同時代の人々が見聞き体験した個々の「もの」の話が引用される。「骨董」欄の「皿屋敷の皿」の記事は、おそらくは図らずして複数地域における皿屋敷説話の事例収集になっており、「異説」「再異説」が提出されて結局3回続いている。また、「骨董物語 夜光玉、魚住水晶、軽重石」(『北窓瑣談』からの引用)や「奇鏡の正体」のように、奇談を科学的合理的に解釈しようとする記事も見られる。

 上のリストには挙げなかったが、狂歌師・4世絵馬屋額輔から外骨に贈られた「髑髏石」の話(第3号)や、浮世絵師・歌川芳秀(記事では“小磯前雪窓”名義)所蔵の「天狗の爪石」の紹介(第2編第2号)なども、妖怪趣味的関心をそそるだけでなく、宮武外骨と当時の文化人の骨董を介した交流を伝えているという意味でも興味深い記事である。


 『骨董雑誌』は明治31年(1898)8月の第3編第3号を以て終刊、後続誌として明治32年(1899)1月に『骨董協会雑誌』が刊行される。
 『骨董協会雑誌』では著名人の論考や実証的な記事がメインになり、怪談的な記事は後退する。「本願寺の七不思議」の記事(第3号)等、そういった傾向の記事が全くないわけではないが、煩雑になるのを避けて今回は割愛させていただく。


 『骨董協会雑誌』自体は第4号までしか続かず、廃刊。事実上の打ち切りであった。広告費や印刷料等およそ4000円余りの赤字を出し、外骨は台湾へ逃亡することになる*8

*1:『骨董雑誌』第1号、骨董雑誌社、1896年11月、13頁

*2:前掲書、11頁

*3:吉野孝雄宮武外骨 民権へのこだわり』、吉川弘文館、2000年、53頁

*4:「日本名物不思議骨董集(天)」『骨董雑誌』第2編第1号、1897年4月、28頁

*5:「日本名物不思議骨董集(天)」で挙げられているのは以下の34タイトル。「霧島山の天之逆鉾」(日向)、「大峰の鐘」(紀伊)、「佐用中山の夜泣石」(遠江)、「無間の鐘」(遠江)、「領巾磨嶺の望夫石」(肥前)、「三幹の鐘」(筑前)、「熊本城清正の木造」(肥後)、「尾上の鐘」(播磨)、「眼目山の山燈籠燈」(越中)、「寿命貝」(筑前)、「三井寺の龍宮の鐘」(近江)、「鸚鵡石」(伊勢)、「松島瑞岩寺の翁面」(陸前)、「幽霊太鼓」(長門)、「栄螺ヶ嶽の言葉石」(越前)、「頬焼地蔵」(武蔵)、「那須殺生石」(下野)、「鹿島の要石」(常陸)、「千住濡ずの石塔」(武蔵)、「宗像翁の面」(筑前)、「名古屋の三ッ瓶」(尾張)、「高知の潮石」(土佐)、「浅草観音の絵馬」(武蔵)、「剱権現の剱」(讃岐)、「苔野ヶ淵の沓石」(磐城)、「血付の石塔」(武蔵)、「犬戸の龍の面」(下総)、「知恩院の傘」(山城)、「善光寺の龍燈」(信濃)、「大野の化石」(越前)、「塩竈の神代釜」(陸前)、「日光の牛石」(下野)、「鹿島の生州瓶」(常陸)、「鐘ヶ淵の鐘」(武蔵)。

*6:「日本名物不思議骨董集(地)」で挙げられているのは以下の13タイトル。「南都総持院の書使地蔵」(大和)、「釈帝石」(日向)、「小田原宿最乗寺の金印」(相模)、「木葉石」(肥前)、「加部福王寺の細石」(安芸)、「吉備津の釜」(備中)、「立山国見坂の姥石」(越中)、「林寺の蛙石」(摂津)、「比叡山祇園石」(山城)、「下谷の化寺蔵」(武蔵)、「新田長楽寺の鈴」(上野)、「天叢雲の宝剣」、「大村の五色海石」(肥前)。

*7:『骨董雑誌』『骨董協会雑誌』にたびたび名前が登場する木原通徳は愛媛の実業家であり美術愛好家である。当時の木原は『御国之光』(1898年)、『日本美術絵画之沿革』(1900年)と日本の美術工芸に関する著書を相次いで刊行しており、『骨董雑誌』第3編第3号には『御国之光』刊行を好意的に評価する時報が掲載されている。また、『骨董協会雑誌』第4号においては愛媛県下で実施された臨時全国宝物調査のようすを報告したりしている。

*8:吉野、前掲書、54頁